二十五年間ノートに乱書きしたもの。よめる人には読んでもらいたいと考えて、
今回おこした。
この三人を実質的に支え動かした人がいる。それは宇野さんだ。ぼくがそう思っていることを、宇野さんは多分ご存知ないでしょう。
ぼくが宇野さんをどう思っているかは「宇野さんは僕の演劇の師」という文章にある。今手元に見つからない。引っ越しのドサクサで分からないものがいっぱいある。
ぼくはこの文章を発表していいかどうかわからない?
でも、多くの人に読んでもらいたいとは思ってます。
三人の劇作家 大橋喜一
一九三五年九月、水道橋の夕空の下、私はかろうじて立って、息をついて思いを返す。
「芝居って何だ?」
かつて、わずかに接したり、のぞいたりした先輩劇作家たちの、その晩年を憶う。
久保 栄
三好十郎
村山知義
久保さんはパラノイアと見えた。眼(まなこ)ギラギラして、なにかを憎悪し、いら立ち、歯がみしているように見えた。
三好さんはひねくれて見えて、ゴウマンな言葉を使いながら、本心はいたく悲しそうに見えた。
村山さんは気弱に涙ぐみながら、理想と希望を、必死に自分に、言い聞かせているように見えた。
三人とも
戯曲が、あるべき観客に結びついてゆかない劇作家の苦悩を――
あらわしていた。
久保さんは、集団から孤立し、
三好さんは、「新劇」なるものに対立し、
村山さんは、古き仲間から離れ、
そして、三人共
豊かな生活とは、とても言えないようだった。
そうした芸術意識は不思議なことに、
みんな日本共産党をどこかで対象にしていた。
外ならぬこの党だけを。
久保さんは党とおのれの切れ目を凝視し、
三好さんは党に反撥し、憎悪の言葉を吐き、
村山さんは党に理想を見て、必死にだきしめていたよう――
三人は三様だったと私に見える。
三人は間もなく世を去って行った。
そして私はこの人たちの年齢になり、多分年だけ越えて行くだろう。
私はこの人たちにとても及ばない。
ながらも、その晩年のいら立ちだけをうけついでいるみたいに感じる。
そして、自らをキチガイだ、と感じたりもする。
私も心の何処かで、この三人に似たものがあることを感じる。
それは、言うもおこがましいことだけれど、
おのれが日本の劇作家の端くれであるからだろうか?
私もいずれ、路傍に朽ちるのだろうが、
でも、この人たちのように、日本の劇作家の一人で、ありたいと思う。
二〇〇九年四月。老人ホームに入所して。
※ 執筆というより、ノートに走り書きをしたのが一九八五年五月。
その後、時々、のぞいて見て、清書(若干の字句の修正と削除)したのが二〇〇九年四月。
だから、発想してから二四年経って、何とかまとめた。
※ 書いたのは、「ナナちゃんは宇宙人」なる戯曲の初演直後で、同作品はこの言葉と関係ない。