マサカネ演劇研究所

2017年

2月

02日

仕事

久々に仕事をした。

世田谷中学での勉強会

月一回の朗読劇

そして『米倉斉加年の仕事』

は続けているが

仕事はなかった。

今、勉強をしなくてはならないが

やはり仕事もしたい。

父が民藝を退団してから

私の仕事は少なくなった

その頃民藝の大先輩から言われた

「公演に参加した方がいいんじゃないか、お前は現場の人間だろう」

その通りであった

その頃から勉強勉強と家族の迷惑も考えずに現場から離れて、家にいることが多くなった。

 

 

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2017年

1月

02日

書き初め

「思えば出る」

これは宇野先生の言葉である

この言葉をどこまで自分のモノにできているか

今年はそれを見きわめる年だと思っている

新しい一歩を踏み出す年にしなくてはならないと思っている

 

やりたいようにやってみて

それが「思えば出る」となっているのか

単なる自己満足ではないのか

利己的になってはいないか

 

「思えば出る」は

利他的個人主義でなくてはならないはずだ

 

これらを実践で試す年にしたいものだ

 

 

 

 

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2016年

12月

31日

一歩前進

何とか前に進みたい

這いつくばってでも前進したい

石にしがみついてもこの道を歩いて行きます

千年居士となれるよう仕事を続けて行きます

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2016年

12月

07日

三年目

米倉斉加年を失って三年目、やるべき事はやっているが、何も成してはいない。

何かを成すことを求めているつもりでは無いが、ちと辛い。

しかし、マサカネ一座の力は付いてきているように思う。

演技は露出しなくては意味が無いが、露出していないときの修養がなくては進歩はない。

修養は出来つつあると思うが……

但し、何かしら演技者としての活動をしている人には慢心が見え、

   演技者としての活動をしていない人には、危機感の欠如からの慢心が見える。

これをなんとかしなくては、これまでだ……成すべき仕事があればいいのかもしれぬが

仕事があったらあったで、修養が出来なくなるし……難しい

しかし、もう少し生活に追われずにいられたらなと、思わずにはいられない。

 

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2016年

9月

29日

世田谷中学校 朗読会

9月23日

世田谷中学校で初めて『言葉の勉強会―朗読会―』を行う。

『多毛留』

『おとなになれなかった弟たちに……』

の朗読をする。

その前に、

どうして朗読会を始めたのか。

これからどのように米倉斉加年の演技を継承していくべきか……

私の意見を述べる。

月一回のこの場は、

語らいの場であり、

私たちの勉強を発表する場としていきたい。

2016年

8月

27日

8月6日

この夏は忙しかった。オリンピックに甲子園。同時に『マサカネ一座』の旗揚げ公演である。
ヒロシマの日には、大橋喜一先生の奥様が亡くなられた。公演終了翌日にはお葬式に参列し、お盆にはお墓参りをさせて頂いた。
私は大橋先生の所に2009年より2012年に亡くなられるまで、週三日間通った。特別養護老人ホームの夫婦部屋であった。先生の話を聞くのが主なることであり、その話の主はトラさんこと奥様のこと(「トラさん」いつも怒られるので)であった。
大橋先生には大変優秀な息子さんがあって、老後は安泰であったのだが、その息子さんは二人の老後を安泰にして先立たれていた。それ以来、大橋先生は御自分の使命を、奥様の車椅子を押し続け、奥様を看取る事としていた。
大橋喜一は劇団民藝の座付き作家で、宇野重吉が劇団の創造面で、最も重視していた文芸演出部を、任されていた人物である。米倉斉加年の初主演となった、『コンベヤ野郎に夜はない』の作者で、リアリズム演劇運動の旗手であり、日本で最も上演回数が多い劇作家である。
大橋先生は奥様との二人きりの介護生活に限界を感じホームに入る事を決意し、(決意をさせるだけの充分な資産を先立たれた息子さんが作っていたこともあり、)御自分の蔵書や劇作のための資料を整理したいと、父(米倉斉加年)に連絡してきたのである。私が大橋先生のホームに繁く通うようになるのはホームに移ってからであるが、それはまだまだお元気で、下町育ちの大橋先生が東京大空襲を書きたいと言われたからであったが、ホームでは書くことはままならなかった。
小学生で二親を亡くし、祖父母に引き取られるが、働き手として高等小学校から働いていた。徴兵で召集されると、頭が良すぎたため(当人の言)、二度の召集にもかかわらず下士官にもなっていない。戦前は築地小劇場にも近寄らない方がいいと考える人々の中で育ったが、戦後は川崎の労働者となり、組合の書記局で文化活動を担うことになる。シュプレヒコールを書くようになり、職場作家(劇作家)となった。宇野重吉に請われて、劇団民芸の座付き作家となったのは、奥様が宇野先生の誘いを受けるように、大橋先生を説得されたからと、ご本人より伺った。

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2016年

8月

16日

今年の夏は暑い

6日に大橋喜一夫人が亡くなられた。

10日、11日とせんがわ劇場で『マサカネ一座』の第一回公演を行った。

26日は米倉斉加年の三回忌である。

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2016年

7月

14日

朗読

昨日、養護学校の高校生に朗読を聞いて貰った。

大変よく聞いてもらえた。

芝居は魅せるものであるが、見せるものではなく、見られるものである。

朗読も聞かせるものではなく、聞いてもらうもの。

演技以上に聞いてもらえる朗読は難しい。

しかし、この子達は最高だった。

そしてこの子達と真摯に向き合うことの緊張はこれまでにない快感があった。

 

謙虚にひたむきに生きていきたい。

正直こそ最強である。

しかし、私たちは色々な物を身に着けすぎてしまった。

脱いでも脱いでも正直な心までにはなかなかたどりつかない。

偏見という鎧は

なかなか脱ぐことが出来ない。

 

 

 

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2016年

5月

28日

5月27日 ヒロシマ

何という偶然だろう。

ヒロシマを描き続けた、大橋喜一の命日はと、アメリカ大統領がヒロシマを訪れる日が同じ日になるとは。

私は昨日、墓参りに行き、オバマのヒロシマの映像を見た。

大橋さんはどう思ったろう、父はどう思ったろう……。

大橋さんはヒロシマの作家であると、僕は認識し大橋さんの所に通っていた。

ヒロシマ・ナガサキの時代に生きていた演劇人で、ヒロシマ・ナガサキと関わっていない人は、おおよそ演劇人とは言えない。その中でもヒロシマ・ナガサキと最も寄り添った演劇人が大橋喜一と米倉斉加年であると思う。

大橋さんとヒロシマの出会いはいつで、どういう経緯でヒロシマの作家になったかは知らない。

大橋さんは劇作家を辞めて、版画家になるつもりでいた。った版画はヒロシマであり、原爆ドームや市電の路線図であったりする。パノラマ写真も作っていたし、パノラマ写真的な戯曲の構想もあった。また、戦争終結のために必要というならと、原爆を落としても人を殺さない方法も考えていて、戯曲にならないか考えていたが、それは不可能であると言っていた。

今もなおヒロシマ・ナガサキを理解出来たとは言いがたい。

がしかし、ヒロシマ・ナガサキが平和の象徴として世界に広まれば、世界平和も夢では無いと思う。

そう信じたい。

 

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2016年

3月

12日

第20回の朗読回終える

2014年6月から毎月(8月はお休み)行ってきた、言葉の勉強会の発表としての朗読劇が今日で20ッ界を数えた。記念すべき20回目は、米倉斉加年作「娘の結婚」を上演した。米倉斉加年が書いた唯一無二の作品である。初演は1985年ころである。根津物語として民芸の新春公演で上演されたのは1989年正月、その後「娘の結婚」として「おとなになれなかった弟たちに……」の朗読と合わせ、斉加年見世として1996年1997年に宇野重吉一座の後を継ぐ形で各地を廻った。

楽しい公演だった。

今日も楽しい公演だった。

 

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2016年

2月

25日

仕事

「ゆめふる」での定期朗読会を終えて、「米倉斉加年の仕事」を発送すると、一仕事を終えた気持ちになるが、この芝居という仕事は、幕が上がったり下りたりするが、終がなく、千穐楽を迎えて幕が下りてもダメ出しがあるし、大抵は次の芝居へ宿題を持って行くことになり、稽古場では絶えず稽古が続くことになることになって、立ち止まることも出来ないが、急にダッシュが出来るというものでもないから、若い人たちには気の毒なことのような気もして、ついエサを鼻先にぶら下げて走らせてしまうが、これはあまりいいことでは無く、この仕事はこの文章が金魚の糞のようにだらだら続けているように。歩き続けることだと教えてあげなくてはいけないと思う。

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2016年

2月

04日

言葉の勉強会

米倉斉加年のノートから、新たな発見あり。

『海に生きる』のノートと、『不思議な卵』のノートから、米倉斉加年の演劇哲学がうかがえた。

2月2日の稽古では『海に生きる』朗読劇の稽古。これまでより立体的な朗読に、新たなステージに。


2016年

1月

29日

言葉の勉強会

2016/01/29 11:00

昨日の勉強会では1971年の稽古ノート(米倉斉加年)に記されている宇野先生の話を板書し、勉強した。3人の勉強会ではあったが、大変充実した時間を過ごせたと思う。

願わくばこの時間が実を結ぶことを……それが、宇野重吉、米倉斉加年を諦めないことになると思うのだが。

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2016年

1月

27日

言葉の勉強会 ノート

昨日の稽古では、朗読『海に生きる』の稽古をした。一座のオリジナルと古典的作品では、勝手が違う。オリジナルでは意味付けをしたくなり、古典においてはやり方に意識が向く。

しかし、最近その違いは思い込みに思えてきた。

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2016年

1月

11日

明日 1月12日 より 

勉強会がスタートします。

 

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2016年

1月

11日

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

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2015年

11月

13日

父帰る 勉強会2

2015/11/12
今日の稽古は宮沢賢治の「ドングリと山猫」
米倉斉加年が春日市の図書館で朗読した作品である。同時に朗読した序文にこうある。
注文の多い料理店・序
 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
  またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
  わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
  これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
  ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
  ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
  ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
  けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
     大正十二年十二月二十日
宮澤賢治

宮沢賢治は「氷砂糖をほしいくらいもたないでも」と書き出している。この「欲しいくらい持たない」がわからなかった。
欲しいけど「持とうとしない」のか、欲しくてたまらないけど「持てない」のかがわからなかった。「持たない」は「持てない」ではないので、「持とうとしない」と言う事ではあろうが、この宮沢賢治の置かれている状況は、目の前にある物を、「持とうとしない」という状況とは考えにくい。そこで「持たない」がわからなくなってしまった。
そもそも「欲しいくらい」という言い回し、これが面白い。「欲しいくらい」とはどのくらいなのだろう。欲求は人により違うだろう、特に対照が氷砂糖となればなおのことである。しかしこれも、視点を変えて、様々な読み手、様々な好みの読み手を対象と考えて、どの読み手に対してもその満足する「くらい」と考えることは出来ないだろうか。「欲しい」強さはそれぞれの嗜好によって異なるし、その対照によっても異なるであろうが、氷砂糖は誰もが「欲しい」典型的な嗜好品と考えられるのではないだろうか。
どうやらこの「氷砂糖をほしいくらいもたないでも」は「氷砂糖は欲しくて欲しくてたまらないが、氷砂糖なんか無くても」と言う事なのではないだろうか。

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2015年

11月

11日

父帰る を 劇的に読む

2015/11/10
「父帰る」をやろうと、二回目の勉強会をする。
宇野重吉、米倉斉加年の演技を継承するのに「父帰る」を勉強する事にした。
寄り道:宇野先生の稽古はなかなか始まらなかった。先ず口をなかなか開かない。大きな声も出さない。ただただ緊張した時間が過ぎていく。ベテランさんが気を遣い何か言うこともあるが、大抵は的外れだ。ただただ黙った待つ。声を待つ。天の声。そこで天皇という揶揄が生まれる。米倉斉加年は饒舌だ、喋りまくる。毎回きちんとノートも作っているが、ノートから飛び出して喋りまくっていた。因みに、村山先生は最高の演出家であったという。黙って静かにうなずいていたそうだ。久保栄は「緊張」というかけ声で、稽古を始めたそうだ。観世栄夫は演出助手(米倉斉加年)に任せて、居眠りをしていた。滝沢演出は一人で3時間の芝居を演じて見せたし、北林演出は誰も言うことを聞かないと、皆を稽古場に残して、小部屋で抜き稽古をした。
宇野重吉、米倉斉加年の演劇ではなく演技としたのは、演劇の単位が演技だからである。演劇を他の芸術文化の中でどういうものなのかと概念として捉えようというのではない。実際に芝居をするにあたって、どのようにしたら良いかを宇野重吉、米倉斉加年の作り方を通して、学ぼうと考えた。実際の稽古でどのようにして、芝居を作って行ったかを、ここで再現することができれば、二人の演劇を継承することになると思った。二人の演劇は稽古場で作られた。稽古場では宇野重吉を信じ、米倉斉加年を信じて、演技者は身を切り血を流した。そして演技が生まれた。その演技を劇場で観客に見せるこことを演劇と言う。
しかし、ここではその見せたり、観られたりすることではなく(まぁ観られることを前提とはするが)、宇野重吉、米倉斉加年はどのように演技を作ったかを「父帰る」を通して学んでみたい。

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2015年

11月

04日

めだかの学校

めだかの会というがあった
めだかの学校は川の中
そっとのぞいてみてごらん
そっとのぞいてみてごらん
の歌の会である
その会がある焼き肉屋さんで
ごま油と塩で食べる
釜揚げしらすの話を
何十回と聞かされた
しかしその話はもう聞けない
その話を語る人が
人たちがいなくなってしまった
みんなであちらで仲良く
めだかの学校のように
みんなで楽しく遊んでるであろう
今日急に思い出して釜揚げしらすを
始めてごま油と塩で食べた
美味しかった

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2015年

11月

02日

一座

一座と云えば、宇野重吉一座のことを言う。


宇野重吉一座の立ち上げは、麥秋社公演から始まる。


第一回麥秋社公演は『古風なコメディ』であった。


そもそも麥秋社とは宇野先生が書いた『「桜の園」について』(宇野重吉演出ノート)を出版するために作られた。それと、自身と奥様の世話をしていたお嬢様に残すために。


まさかね図案舎は紀伊國屋書店の好意で、店を出す時に作られたのであるが、竹久夢二の港屋の様なものであった。それと、青芸から続いていた、米倉を支えてくれていた、仲間の爲であった。


宇野重吉一座は民藝公演と言っても良いものであったが、宇野先生の中では民藝公演では無く、あくまでも宇野重吉一座であった。しかしそれをそのように受け取った人は、観客にも出演者にも多くはなかった。多くの出演者は民藝公演と同じように配役され、同じようにギャラを貰っていたのである。


まさかね一座は民藝以外の参加者はなく、民藝公演と言って良いものであったが、民藝からギャラを貰っていたとしても、民藝公演ではなく、民藝の外の公演とされた。


ここに、宇野重吉一座とまさかね一座の大きな違いがあるが、私はそれを大きな相違点とは思わない。


宇野重吉一座は民藝公演としても良いが、まさかね一座の公演は民藝公演とはならない。と言う事なのであるが、その違いは民藝という劇団の捉え方の相違である。演劇はあくまでも自立した個々の集まりでなくてはならないが、どうしても寄り添い、もたれ合う実社会的な面もある。その為、日本人と外国人という独特な考え方と同じように、劇団と外、劇団があるから芝居が出来ると考えてしまう。しかし実はそうではない、やりたい芝居があって、一緒にやりたい仲間がいるから劇団が生まれ、芝居が出来るのである。
その点で言えば、宇野重吉一座とまさかね一座は同じなのである。宇野重吉一座は「ムキになってやれる奴だけでやる」まさかね一座は「やりたい奴だけでやる」でやったのである。



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2015年

9月

04日

残された仕事3

人の仕事は
生きる事である
死ぬことは仕事ではない
しかし子どものため孫のために死ぬことは……
親のため祖父母のため愛する者のために死ぬことは……

芝居をする覚悟とは
川で子どもが溺れていいるのを見つけたら
その時にどうするか
と言われた

東北の大震災でお年寄りを助けて
無くなった消防団の人々がいる
死と向き合うことが生きる事となってしまった

人は自然に生かされている
自然と向き合うことは死と向き合うことなのかも知れない

芝居と向き合うことは
芝居をすることである
芝居を観てもらうことが
芝居と向き合うことであり
芝居をすることとなる
そしてそれが生きる事だ

演技は残された
芝居をしよう
それが残された私たちの仕事である
これまでやってきた芝居を
世の中が変わろうとも
これまでにやってきた芝居を学び
その上で新しい芝居を作る
それが残された仕事であり
残された者の生き方であると思う



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2015年

8月

09日

きけわだつみを見に行こう

「きけわだつみを見に行こう」

そんなに俺が言った時
君は俺の顔を見ただけで
横にかぶりを振った
それから俺が真空地帯をさそった時も
やはり同じように
かぶりを横に振り
戦争映画は見たくないと言った
戦争が終わって八年もなろうとしているのに
戦争の傷跡は
今でも君から去っていない
水槽とながしと
玄関のたたきだけを残して飛び散った家に
中心より六百七十米の城山だと言えば
奇跡だと人々の言うように
君はかすり傷もうけずに生き残った
地獄の中でのたうつ無数の肉塊
その中で君だけが
かすり傷もうけずに生き残ったのだ
戦争映画
それが戦争をのろう映画であろうと
君はかぶりを横にふる
まして数年をへた今でも
原爆の傷痕が人命をうばっていると
誰かの口の端にのぼることがあれば
そのことが君の耳を傷つけでもするように
君は耳をふさぎ
目をかたくとざす
君は人間の最大の悲劇を
目の前に再現することを
憤怒の情をもってさえぎろうとする
だが君はそのことが
君だけでさえぎれないことを知っている今
目をとじ耳をふさぎながらも
原爆の悲惨さを会う人ごとに訴える
一本の立木も残さず
吹き飛んだ裏山に
ポッカリ残った防空壕の前で
写真までうつしたアメリカの医者は
驚きの声をあげた
他の多くの人々が言ったと同じように
奇跡だと
だが君は無傷で生きているのではない
君は会う人ごとに話す
かすり傷もおわなかった私が
数日をへずして
頭の毛が一本も残らぬようにぬけたと
歯ぐきから血がほとばしり
身体は斑点と
眼からは涙さえでないようになった等と
いやそれ以上に
今でも肉づきの悪い身体が
直ぐに疲労を感じることを
そんな君を丁寧なあいさつをもって
ABCCの自動車は迎えに来た
だが喜んでいった君を待っていたのは
目だけしか見てやらぬアメリカの医者だった
そして悪かったら日本の医者によくしてもらえと
原発の傷痕は目だけにあらわれるものなのか
迎えの時とうって変わったこの行為に
君は不思議なおももちで問うた
「何故身体全部を見ないのです
貧苦の中でむしばまれてゆく私達は
ただ死を待つのみですか」
アメリカの医者と日本の通訳は
くどくどと答える
アメリカから予算がこない
アメリカから送ってくる予算が少ないと
目だけしか見てやらぬことの前に
君はアメリカの真の姿を知った
何のための調査かを
君の怒りは炎となっ
アメリカの医者と日本の通訳にたたきつけられた
「きれいな自動車の送り迎えが
私達にあたえられた最上のお情けなのですか
そんなちっぽけな情けを
私達は今必要としない
アメリカは
アメリカの軍備の費用をさいても
人類最大の悲劇をおぎなうべきなのだ」
君の怒りの瞳に
アメリカの医者も日本の通訳も
何一つ言えずうつむいたという
アメリカは私達に
原爆を落としただけの国でしかなかった
そのことはまた
君の原爆の訴えの中に加えられ
君は目をとじ
耳をふさぎながら
原爆の悲惨さを会う人ごとに訴える
俺はもう君に

それが反戦ものであれ
戦争映画を見に行こうなどとはさそうまい
それより君の
目をとじ耳をふさぎながら進む平和の途を
君と共に押進めることを誓う

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2015年

8月

01日

残された仕事2

おとなになれなかった弟たちに……

どうして書かれたのか

どういう風に書かれたのか

戦争体験の無い私には分からない

しかし一つ分かるような気がする

この絵本には客観的な事実があると言うことである

読んで理解する

読む事で感じる

この絵本を理解するには読むしかないのである

声に出すことによって理解する読み方がある

米倉斉加年は声に出して理解していた

自らが書いた本であったが

声に出して読み理解を深めていた

私たちも声に出して読み

理解を深めていきたい





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2015年

7月

30日

残された仕事

米倉がやり残した仕事は多く 大きい。

新劇とは開かない扉を叩き続けることであると聞いたことがある

他の芸術活動とは異なり 現実の社会と密接な関係にある爲

 時代を超えた真理 ではなく

その時代を科学的な目で読み解くことに主眼がおかれる

長崎に中村食堂という おでん屋さんがあった

そのお店のご夫妻には 多くの劇団がお世話になった

ご主人は長く 演劇鑑賞運動の世話役として活動していた

私たち劇団は大型のトラックで荷物を運び

全国津々浦々で東京で上演するのと同じ芝居を

東京まで来て貰わずに こちらから出向いて上演する

中村さんは必ず トラックの出迎えと 見送りをして下さった

30年前のことだ

戦後の地方巡業はチッキ(鉄道)で運び 駅よりダンプや大八車で道具を運んだ

トラックで道具を運ぶようになって 巡業は飛躍的に向上するのである

日本の演劇に於いて 地方巡業は大きな意味を持つのである

その巡業の意味を 中村さんは良くご存じあったのだと思う

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2015年

7月

08日

三平さんさようなら

創造と普及
演劇運動は創造と普及です。
そもそも演劇運動とは演劇の公演活動のことをいいます。演劇は他の芸術とは異なり、運動(スポーツ)と同様にその時々の行為そのものです。運動であれば、競技会であったり、試合と言う事になります。美術や文学がアトリエや書斎で創造したものを公開するのとは異なります。演劇の表現形態は運動の競技会や試合と同じなのです。つまり演劇は運動体なのです。
ですから演劇を演劇運動として捉えると、演技を主とする創造だけでは演劇運動とはなりません。普及と言って観客を組織し、客席にお客さまが入らなければなりません。演技をお客さまが見て始めて演劇なのです。創造と普及が両輪となって、演劇運動なのです。
普及とは、「広く一般に行きわたること、また、行きわたらせること。」(広辞苑)ですから単に、チケットを売ればいいわけではありません。演劇運動とは、どこに向かうのか、何を行き渡らせようというのかが、問題となるわけです。
三平さん(榧野明)が亡くなりました。私(米倉日呂登)の先生でした。宇野先生をトラックに乗せて、宇野先生の演劇運動を日本中に広める爲に働いた人でした。
宇野先生が作った劇団民藝の人ではありません、運送会社で、演劇一筋に運搬をしてくれました。米倉斉加年はよく話していました、三平ちゃんは荷物を運ぶだけの運転手ではない、心を運ぶ運転手だと。
三平さんこそが、普及の中心でした。プロデューサーでもなく、劇団の人でもありませんでしたが、私たち演劇人と、日本中のお客さまとの架け橋となってくれました。
三平さんに教えて頂いた、普及を私たちは忘れません。宇野重吉、米倉斉加年と引き継がれきた創造と共に、石にしがみついても創造と普及を続けて行きます。

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2015年

7月

06日

創造と継承

宇野先生を米倉斉加年は如何に継承したのだろう。
宇野先生の替わりはいない、出来ないと言い続け、しかし、宇野先生の後をしっかり歩いた。
今、私たちは同じように米倉斉加年の歩いてきた先を歩かなければならない。
宇野重吉の屍を踏みつけ、米倉斉加年の屍を踏みしめ、私たちは演劇の高見に登らなくてはならない。
それが、継承であり、創造である。
宇野先生の歩いてきた道を、米倉斉加年が作ってきた芝居を、私たちは継承していきたい。戦後宇野先生が子ども達に読み聞かせていたと言う話しを聞いた。、米倉斉加年が自作の絵本を朗読していたのを見てきた。
米倉斉加年は宇野先生の仕事を真似ていいのだと言っていた。同じ劇団であるれば真似て良いと言った。木下順二さんは劇団は関係ない、米倉君がやれば良いと言っていた。
今私たちは、宇野重吉の仕事を、米倉斉加年の仕事を踏襲し、新しい道を拓いていきたいと思う。

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2015年

7月

01日

日常と非日常

日常と非日常
演劇は非日常である。
非日常の世界から日常の世界を写すのが演劇です。
演劇は日常から出発してある典型的な日常(非日常)を生み出すことです。
ここで言う演劇はリアリズム演劇、新劇のことです。
久保栄は演技とは自分から出発して、他人の皮膚を被ることであると言っています。
演技は非日常からは生まれません。あくまでも日常生活で使われる言葉で演技は行います。
日常使われる言葉を使い、ある典型的な人物を創造し、ある典型的な世界を描くのが演劇です。生み出す世界は決して現実にはない世界、非日常(ある典型的な日常)の世界となります。
セリフは日常語で書かれていますが、台本は非日常を描いています。
セリフを読むときには戯曲全体から読むわけですから、非日常的な世界から、セリフを読む事になります。その為セリフが非日常的になることが多く、芝居=嘘と思われることがありますが、それは誤りです。
セリフは日常使われる生きた言葉ですし、芝居は現実より真なるものなのです。

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2015年

6月

29日

五感

五感                         
目で聞き、耳で読み、心臓で考え、頭で呼吸する。
    目で聞く:本を読むとは目で聞くこと。
    耳で読む:言葉を聞くとはその文章を読むこと。
    頭で考えない:感性を鋭敏にし、解釈ではなく、感性の琴線が触れるようにする。
      解釈で表現しない。(観念(イデア)は重要であるが、観念では表現は出来ない事を知る。)
      人は思想、哲学等の理念で生きている。理性を捨てては人ではなくなる。そして、理性と感性との行き来が言葉となり、行動となる。理性は言葉となって現れることが多く、文章(台本の台詞も)を読むという行為そのものには感性は使えない。しかし、言葉そのものは感性から出発して、理性を働かせて、出る。
演じるとは
      自分から出発して他人の言葉を代弁すること。
      そしてその代弁は、他人の言葉そのものとして聞こえること。

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2015年

6月

28日

収斂

 収斂する
私が米倉斉加年の影に隠れている、逃げていると人は言う。そんなことは思ってもいなかったが、なるほどそういわれれば、その事を批判していたのかと思われることが、これまでもあった。多くの人がそうのように見ているとしても仕方が無い。宇野先生の下で米倉斉加年が芝居をやっていたときも、そう言われていたのである。
演劇の場で利己的な名声を得ようとする視点から見ればそう見えるであろう。しかし、真の演劇を極める、良い舞台を作ることで、自らを高めようとするならば、自分より優れた者と組み、そこで自分を引き上げていこうとする行為は、間違っていないと思われるし、非難にはあたらないと思う。それどころか、集団の創造としての側面から見ればより豊かな集団でこそ優れた演劇活動が出来る、結果自らを高めるのである。
真に豊かな集団とは優れた人材がそろっている集団を指すのではなく、どのような人でも引き入れることが出来る集団を指す。弱者を救済できてこその強者であり、弱者を踏み台にする強者の集団は豊かな集団とは言えない。宇野先生の作る芝居は弱者を救済する芝居であった。
個人の技量を磨くために稽古をするのではない。演技を磨くことを稽古で求めるのではなく、劇的世界を高める為に稽古をするのである。
劇的世界を高める為には、らせん状に収斂する必要がある。それぞれが、それぞれの方向と力を発揮するが、その方向と力はらせん状に働き、渦となって収斂する。皆が同じ方向を向いて、同じ方向に力を入れても、劇的世界は動かない。
そのらせん状をデザインし、示すことができる者がリーダーとなる。そして、その渦は劇的空間すべてを、巻き込み、収斂させる。客席をも巻き込み一つの空間として演出される。その演出された空間を経験して始めて、真の役割が理解され、その理解が次に繋がるのだと思う。
そういう風に考えると、個人の技量を磨くためにも、参加することが第一であり、それぞれがそれぞれに役割を知り、その役割を成すことがすべてと言う気がしてくる。

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2015年

6月

27日

楽屋落書き8

☆'04.3.9放映TBS〈波瀾の人生スペシャル女優森光子83歳〉
「いま命絶えても幸せです」(名古屋CBC夜9:00)

まず、美しかった登場女優の誰よりも若く美しかった。
東山君とは四十才の差があるのだろうが、恋人といってもすがすがしく、イヤラしくなく……東山君の人柄も良いが、森さんが若く初々しく成立させている。
大苦労話しがなく、説教がなく、それでいて広い世界がうかがえ、説教がないだけに深みを見る。芸の奥義神秘性を売りものにしないからこそ、その魅力がミステリアスになる。神がかり、芸の神様でなく、芸人が昇華して、芸の華を咲かせた。現代の大女優。だれもなし得なかった、軽業師のような全部自分で出来る。つまり、新作もそして全編に出演、セリフも一番多い。こんな役者は、世界中にいない。

遠い世界の玄人。神秘的な世界に住む人――。
そんな人と毎日同じ舞台に立っている。これは本当だろうか、ここは名古屋だ、そして中日劇場で上演中だ。俺は役者だ。俺は役者だが……ほんとに役者なのか。
俺には何が出来るから役者と言えるのか。
森光子さんには、芸と才能がある――。

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2015年

6月

27日

楽屋落書き7

☆役者の個性とは
芸術おけるオリジナリティーとは
¡ 人に従属しないこと
¡ いやしくないこと
¡ 誇り高く孤高であること
¡ 権力に屈しないこと
        ※それは日常の生活の中で培われる
一般人と同じではいけない。そして一般人と同じ感覚と生活を持ってなければ、いやそれ以下の生活意識を持ってなければならない。
¡ ただ(無料)だからムヤミに使うとか食べるでは、人間の節度がない。そこにその人の人間性が見える。
¡ 長所は多くの人々と共通している。そしてもっと上が必ずいる。声の良い人、顔の良い人、体(スタイル)良い人、等―。
¡ しかし欠点、短所はおそらくその人だけのもの、これを、この負を正にすれば良い。
¡ どんなに困っても、権力者、金持ちに頭を下げるな。友人に相談しろ! そんな友人を持て。助けられて、上下関係をつくるな。家来になるな。
¡ 無料(ただ)でも有料でも、家庭でも、どこでも、
    人間が変わってはならない。
    食が変わったり、態度が変わったり、使い方が荒く品物を無駄使いしてはならない。
¡ どんな人にも同じように対応する。
    エライ人、エラクない人、若い人、老人、外人、日本人、金持、貧乏人で対応が違ってはならない。
◎その人間しか持ってない特徴(あるいは長所)とは何か、どうしたら育つのか。

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2015年

6月

23日

楽屋落書き6

'04名古屋中日劇場
☆「役」は役者の生命と共にある
病気の時は病気のまゝに。
声が出ないときはでないままに。
心の窓口は日々変化してかまわない。
時の流れ、生の流れにまかせて、
その時々のコンディションの中で演じる時、
その役者の生命が、コンディションが、
その時の精神状態がそのまゝ反映すれば良い。
演技とは=人間の生きざま
芸術とは=生きているかぎり、生きる、それが表現
        ※生きていても、生きる力が衰えた時、表現は終了する。

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2015年

6月

22日

楽屋落書き5

'04大阪・梅田コマ
☆演技は人格に支えられ役者の品格となる
うまい技術とは、セリフ廻しを聞かせ、見せることだと思っている役者いるが、それでは心は伝わらない。心が伝わらない言葉は死んでいる。うまさ(見かけの 上辺の)を見せるのは品がない。(しかし美事な真のうまさ、名人芸は別である。「芸」は美であり、破壊的である。恐ろしい、孤独なものである。)
(うまさ=見せびらかし と「芸」(うまさ)=美→心のやすらぎは別である。権力へ金になびかない。)
詐欺師と政治家はウソをついているから立て板に水の弁説さわやかよどみがない。
よどみがないセリフ廻しはウソである。
人間は、ウソをつくときはよどみがない。
懸命に語るのと、セリフ廻しのなめらかさは別である。

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2015年

6月

22日

楽屋落書き4

'03東京芸術座
☆森光子さんのセリフ二場面
〈女給部屋の語りと、血のところ〉
¡ イメージは計算では成立しない
¡ セリフは普通に説明しない
¡ 自分の放浪を語る時
  相手に話しかける
  独り言になる(心境)
  回想時(状況)
  役の相手に
  客へ           まじり合う。
  独白
複雑な色合いになる。
計算では(左脳的論理)では三~五くらいの色分けしか出来ないだろう。
完成にまかせた時、(そこに存在し、自分を現在、過去予測の世界に遊ばせた時)それは無限に近い色あいを生み出す。
語りセリフの塩梅

喀血の場は
即物的に色をつけす、悲壮感もなく、呼吸の間と強弱だけ。感情を排除したところが絶品。説明ではなく、事実が浮き上がる。

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2015年

6月

20日

言葉の勉強会 発表会

二年目 12回目の発表会

二年目に突入した。

ルナール「にんじん」を上演する。米倉が上演するために作った台本のダイジェスト版を朗読した。

米倉台本も大橋喜一作品と共に、このページにアップしていきたい。

ただ読むのではなく、聞いて貰うために読むと、新しい発見がある。

今回特に母親と父親についての発見が多かった。

又今回男子ににんじんを読んで貰ったが、予想以上に良かったと思う。

舞台では男の子の役は大抵は女子が演じるが、男の子であっても、男は男子が演じる方が良いように思う。

 

 

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2015年

6月

19日

楽屋落書き3

'03東京・芸術座
☆役の解釈に絶対はない。
(例えば、代役でやる場合、初演でなく、再演で交替する場合。ダブルの場合。)
描き下ろし初演の場合はこの問題に表面的にひっかかることはないが、本質的には考え方としては同じである。
古典、名作の場合は、誰それはこうやったとか、また長期公演の場合は途中で交代することも多い。ある時はVTRを渡され、参考にしろならまだ良いが、先代の通りにやれと言われる。病気、負傷の不慮の事故の場合の緊急交代の場合は先代通りにする方が良い場合もある。というより、そうせざるを得ない。
あたかもそれは、絶対的な役の形象が存在するという考え方である。しかしこの考え方は間違いであると断言出来る。
創造に完成がなく終わりがないように造形に絶対はない。それは神に形を与えるが如きある。神を見た者がいないように究極の絶対の役の形象はないのである。
役は演ずる役者のそれぞれの中に存在するのである。

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2015年

6月

19日

楽屋落書き2

'04名古屋・中日劇場
☆役者の仕事
今日舞台でカフェーの場で、林芙美子、日夏京子と三人だけの場で、ふと、俺の一生はこれで良いのかと思った。
俺は新劇を志して上京し宇野重吉の弟子となった。
一七〇〇回の名舞台に自分も一〇〇〇回出演出来ることは、役者名利につきるし、光栄なことである。
でも、俺はこれで良いのか、自分の仕事をなしたか?!  客が入らなくとも、世界で評判にならずとも良い。
自分の仕事をなしたか?

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2015年

6月

17日

楽屋落書き 米倉斉加年

楽屋落書き 米倉斉加年
2003年9月博多座、11月12月芸術座 
2004年2月大阪梅田コマ劇場、3月名古屋中日劇場

平和は人が生きること
戦争は人を殺すこと
平和を目指して
  まっすぐ まっすぐ歩いていこう

'03東京芸術座
☆本の読み方と表現との関わり
セリフを手掛かりに本を読み、解釈する。セリフから役をつかみ、芝居の世界をしる。でもこれはあくまでも解釈であって表現ではない。
これを表現の第一段階と思ってはならない。表現は解釈と同一線上にあって解釈の彼方にあると思うのは間違いである。
解釈と表現は別レベルにあって次元の違うものである。
表現が解釈と同一線上にあって解釈の成熟が表現と思う役者は――
セリフの言い方(セリフ廻し)で役の人間性が出来ると思っている。故に役作りとはセリフ術と錯覚している。ストレッチや筋力トレーニングが役作りではないように、これらの技術、運動能力が役者にとっては大変重要であるがそれは、役者の素材、基礎的なもので表現創造ではない。
セリフの言い方、色どりで役を表わす行為は表現ではなく説明である。解釈の延長線上にあるのは表現ではなく説明である。

表現とは何か?
表現とは世界観、思想、哲学とも言える。
作者と同磁場に立つことでもある。
作者が〈ある人間〉の存在証明のために言葉をその〈ある人間〉の〈セリフ〉として書いたのなら〈セリフ〉から我らは〈ある人間〉にたどりつき、〈ある人間〉の思考、行動結果として〈セリフ〉を言う。
その〈セリフ〉は役者の主体(自我/存在)と対立する。その時、役(〈ある人間〉)と役者の葛藤が始まる。その役者と客との対立が生じたとき、客は上演されている劇的世界と対立する。
劇的なるものの誕生である。

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2015年

6月

16日

テキストレジ

戯曲を台本にする作業をテキストレジ(本直し)、略してテキレジと言い、稽古途中で台本を修正することもテキレジという。
テキレジこそ演出の妙味ではあるが、作家にしてみれば最も気になり神経質になることである。そこで演出は作家以上にその作品を理解し、評価し、テキレジする際には作家を納得させねばならないのであるが……、作家にしてみれば、書いた本人が最も作品を理解し評価しているわけで、そうして完成させた作品を、修正されて「ハイそうですか」とはいかないわけで……、そういった意味に於いても妙味となる。木下順二は稽古場には出ず、作家の意図なども一切語らなかった。作家が筆を置き、作品を演出に渡した時点で、(著作権以外は)作品は一個の独立した、ある種の人格を持った存在となり、作家の手を離れる。作家にしてみれば、愛する娘を嫁にやるのと同じである。やるかやらぬかには口を出せるが、やると決めたらば、もう口出しは無用なのである。
チェーホフは、配役から解釈まで、細かく口だしをしているが、ダンチェンコやスタニスラフスキー、妻クニッペルとの信頼関係に最後は委ねている。
リアリズム演劇に於いて優れた作品は、誰のものでもない、そこに生きる大衆のものである。大衆の力となる作品が優れた作品である。
米倉斉加年演出・木下順二作『オットーと呼ばれる日本人』では、初演の宇野重吉・滝沢修コンビの印象が強く、難しい公演となった。初演当時は単なる名作では無く、エンターテイメントとしての評価も高かった、それは当時の社会情勢と、演劇事情によるのだが……。それに対して、米倉演出の時は、名作を見事に上演したという評価ではあったが……。
米倉演出では初演から時は経ていたが、現代性を入れたりしてエンターテイメントとして盛り上げることはなかった。ただ作品を理解し、テキレジをせずとも現代に通じると考え、とにかく一字一句おろそかしないようにした。テキレジの仕方によってはエンターテイメント性が加わったかも知れぬ、しかし、それでは作品の持っているものを消してしまうかも知れない。
作品は生きている。
時代を超えて生きる力を持っている作品がある。木下順二作『オットーと呼ばれる日本人』はそういう力を持っていると米倉演出は感じたのである。
分からないと言って直したり、この方が面白いからと変更することで、作品の持っているものを消してしまっては、その時は喜ばれても、次の時代には届かなくなってしまうのである。

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2015年

6月

15日

台本

戯曲を演出が上演用に直したものを台本という。稽古の中で演出が作り上げた台本を、公演後に作家が直した台本は戯曲と言われ、全集などに収録されている戯曲の多くはこれである。
創作劇では、作家が書いた戯曲を、上演用に手を入れ上演台本とし、上演後に作家が再度手を入れ(あるときは戻し、あるときは演出の考えを残し、又あるときはまったく新しく書き換える)、再び上演台本として稽古場で手が入れられる日が来るまでは、戯曲として作家の家で休むことになる。余談であるが、戯曲が小説並みに売れた劇作家は井上ひさしだけである。
本来新劇では、戯曲が先にあって、その戯曲を台本として作る。その作業が演出の最も大事な作業であり、台本が出来上がってから本格的に芝居作りが始まる。
戯曲は小説等の文学の一つのジャンルであり、舞台で上演するために書かれていると言うより、原則的には会話(台詞)だけで構成された小説である。地の文が主体の小説と会話(台詞)で書かれる戯曲という違いはあるが、活字の表現なのである。
しかし台本は、活字で書かれてはいても、活字では表現しない。役者によって、生の言葉で表現される。戯曲の時点で、生の言葉をイメージして、あるときは声(音)に出しながら(ほとんどの作家は声を出しながら)書かれてはいるから、直す必要が内容に思われるが、そうはいかない。宇野先生は木下作品と、チェーホフはまったく直さず台本を作っていたが、他の戯曲は換骨奪胎してしまうので、いやがる作家もいた。
作家が舞台空間に縛られていては、良い作品とはならないが、舞台を作る側としては、作家の自由な感覚の空間を舞台の制約ある空間に置き換える作業が必要である。実はその作業が演出は一番楽しい。

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2015年

6月

14日

裏方 表方


裏方、表方は舞台用語である。裏方は文字通り、役者が演じる裏で働き、表方は制作をさす。制作とは受付であり、観客の求める作品を制作し、公演の観客を組織する役割を担う。
絵画で言えば画商であり、文学で言えば編集者であり、音楽、演劇では制作(マネージャー)と呼ばれ、パトロンとなることもある。 
基本的にアーティストは生活力が弱く、経済観念が希薄である。また生活臭があったり、経済観念が優先していると、いい創作が生まれることが少ないのも事実である。
その為、画商や編集者や制作者は秀でたアーティストを見出すことに躍起になり、またアーティストはアーティストで、なんとか制作者に見初められようとする。そうでなくては、世に出てアーティストとして生きていけないと考えるのである。
が、しかしである。
本来の創作とは誰かに認められるためにでは無く、自らが主体的に行う行為である。やりたいことをやりたいように、しかも納得がいくまで出来る限り手を尽くすのが、創作である。創作に集中することが全てである。
結局、制作者の仕事はアーティストを信じ、アーティストの創作を助ける事が第一であると思われる。そういう制作者のサポートでアーティストは創作に集中し、納得のいく作品を仕上げることが出来る。
観客が求める作品とは、アーティストが納得いくまで手を尽くしたさくひんである。そして観客を組織するには制作が納得いく作品でなくてはならないし、制作が納得いく作品はアーティストが納得いくまで手を尽くした作品でなくてはならない。
これが演劇の志ある縁であろう。

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2015年

6月

13日

台詞を忘れるということ

一年ぶりに福津市へ来て市民による民話劇団に参加する。今年で15年目になる。昨年は米倉斉加年が始めて、役者として参加するはずであったが……

15年して皆さん上手くなりすぎなので、台詞を捨てて、役で立つようにお願いする。

それが本来の演技なのだが、難しい。そして、ここではその難しさが分かっているのだから、我々もうかうかはしていられない。

台詞を先ず覚えるという役者も多く、そのやり方で作ると台詞を捨てられない。そうなると、芝居はあまり上手くないが、それでも、台詞が入らなければ稽古も進まないので、台詞を入れて稽古に入ってしまう。これは映像では当たり前であり、このやり方が正統である。

しかし舞台では台詞を入れようとはせず、先ず人格を作る。台詞を言わずとも、舞台にいることが出来るように人格を作る。その後で、台詞を入れる。いずれにせよ、劇中に台詞を繰る事は役ではなく、役を演じる演者だから、その時には役ではなくなってしまう。

だから、台詞を捨てなくてはならない。台詞を忘れて、舞台に立つ勇気が求められる。

台詞は食事のようにかみ砕き、消化し、排泄物として出すのである。台詞が出てくるときには、素材も、栄養素なども、痕跡はなくなっている。しかし、残念ながら、科学物質はそのまま残るので、有機物だけを食するようにしたいものである。

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2015年

6月

12日

劇場とは人が集う劇空間

そもそも演劇をする場とはどういう場であろうか?
 やりたい芝居があって、それを観たい人がいたときに、生まれるのが劇場であり演劇をする場である。場があって演劇が生まれるのではなく、演劇が生まれる処に場が出来るのである。
 ならば演劇はどこから生まれるのであろうか?
 人間社会から自然に必然的に生まれてくるものである様に思える。
 今の社会から生まれてくる演劇はどんな演劇であろうか? それぞれはどんな芝居をやりたいのであろうか? 僕らが、今この社会で生きている僕らが、どんな芝居をやりたいかであろう、僕らがやりたいものを必死にやれば、必ず観客はついて来るに違いないのである。
 今それぞれが何を誰とやりたいかを考えなくてはならない。思った通りにはいかないし、思った通りに行ったところが、一人の考えではつまらない。しかし皆がそれぞれの思いをぶつけ合う処に社会があり、演劇が生まれるのである。劇団がなくては芝居は作れないかも知れないが、劇団が有るから芝居があるわけではない。劇団があっても、どうしてもこの芝居がやりたいという思いがなくては演劇は生まれないのではないだろうか?
 誰にでも気持ちをぶつけなくてはならない、自分たちの意見を持ち、ぶつけなくてはならない。
 正論ではあっても、観念論であり、実行できない話と言われるかも知れない。青いと言われるかも知れない、しかし僕たちは、金儲けや、売名行為、名誉欲で芝居をやろうというのではないはずである、やりたいからやるのであると言うことを、忘れてはならないと思う。

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2015年

6月

11日

何が難しいか

  良い役者になるための条件
              人間としての修養が出来なければ・・・・・?
                  人間として失格でも役者として成功できるか?
 偏見のない読解力                 形象(デザイン)
     豊かな表現力(技量)    技量〈テクニック)
          繊細でも折れない感性           反応(リアックション)
 役を作るための条件
            人格    生い立ち、遺伝子(友人や知人と肉親や親戚)に伴う性格
            状況     何時何処何が起こっているのか。
            縁     共演者、上演する場所、時代、社会状況。

概念として理解出来ても、実際の役作りに役立つかどうかは判らない。

しかし少なくとも役のデザインは必要であり、そのデザインが芝居の善し悪しを左右する。

看板俳優がいなくては始まらない商業演劇は、役のデザインを先に決めているとも言える。



 

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2015年

6月

10日

逆撫で

逆撫で
これは宇野重吉読書術であるり、台本の読み方だ。と言っても台詞術ではなく何が書かれてあるかを知るための読み方である。
読書術には速読術と遅読術という括りかたがあると考えられる。速読術は知識を得るため、遅読術は理解をするためと言える。逆撫では遅読術の方である。
とは言え台本を理解し台詞を言うのは遅読術では難しい。遅読術で理解した、内容を説明してもそれは台詞にはならない。内容を理解することと、台詞術は相関関係が薄い。内容が理解出来なくとも台詞が上手い役者がいれば、内容が理解出来ても台詞が下手な役者もいる。理解出来なくとも上手い役者を芸人と言い、理解出来ているのに下手な役者を(新劇)俳優という分け方もある。ちなみに役者は舞台で演技をすることを生業とする物を言う。
新劇の世界では上手くなくとも、理解出来ている方がいいという訳なのだが、上手い方が説得力があるわけだから、理解して上手ければ言うことがないはずである。
そこで、逆撫でという読み方であるが、この読み方は、書かれている事を、そのまま読むという読み方である。
一つの語句に作家は様々な思いを込めている。人が発する言葉は実に複雑である。本心と言っても、たとえ言っている本人がそう言ったとしても、そうではないこともある。その上そこにドラマが生まれることも少なくない。
つまり台本を理解をするための読み方は、一通りではないと言うことだと思う。一つの答え(読み方)を求めるような読み方では無い読み方、それが『逆撫で』と言う読み方では無いかと、私は理解している。


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2015年

6月

09日

宇野重吉先生の話2

新劇は政治のプロパガンダとして演劇を利用し、日本の演劇を大きく後退させたと言う人がいる。そして、その代表的な存在として宇野重吉は語られる。
日本の近代演劇の始めは、マルクス主義に根ざした、プロレタリアレアリズムであった。マルクス主義から生まれた社会科学に基づいた社会認識が、新しい演劇を作り出したのである。新しい社会(工業化によって生まれた労働者が多数の近代社会)を理解するには新しい社会認識が必要であった。
それを始めに手に入れたのが新劇だったから、その影響力は大きく、ある人たちにとっては驚異であったに違いない。その為、戦前戦中は弾圧され、戦後は一時もてはやされ、政治に利用したいという権力志向が強い演劇人が出たのも事実である。しかし、朝鮮戦争から行動成長期にわたっては、徐々に疎まれるようになった。
新劇はその舞台上で構築される劇的世界に観客を引き込み、実生活と向き合わせる。実生活からの逃避をゆるさない。それが生きると言うことだから、実社会で生きている人たちと共にありたいから、そういう芝居になる。
宇野先生の芝居はだから厳しかった。社会を動かし引っぱっているのは政治家でも、金持ちでもない、額に汗して働く人々である。その人々のための芝居を作る。それが新劇であり、宇野先生の芝居であった。
余談であるが、新劇は戦前戦中に大変残念であるが二派に別れていた、時代の流れが強すぎたのであろう、何とかその波に乗ろうとする派、その波に逆らおうとする派である。演劇は時代の流れには逆らえないが、その流れを作っている行列には参加してはならないと思う。それが演劇的立場である。宇野重吉はその立場を守っただけだと思う。そして宇野重吉は戦後、不幸にも別れてしまった二つの流れを合流させた。
宇野重吉は現代演劇の父である。

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2015年

6月

08日

宇野重吉先生の話

宇野先生の言葉
米倉斉加年が宇野重吉にはじめて会ったのは、劇団民藝の研究所である水品演劇研究所に入所して1週間ほどったた時のことだそうである。劇団代表の一人として新入生に対して話しをしたのだと思うが、宇野重吉先生は「なぜ演劇を志したかと」いう問を出した。
『世界人類の平和のために』 と答えた者がいて、
その若者に「何だって!? 世界人類の平和のために芝居をする? うん、それもいいけど、大きなこという前に、親を兄弟を愛し、理解しているか、そして説得出来るか。友人を隣人を、先ず身近な人を愛し理解すること、それが始まりだ。」
と話したそうである。
宇野先生は演劇の世界で相当な怪物であり、特に新劇に対して批判的な人々からは、新劇界の天皇とまで揶揄されていた。
宇野先生が演劇運動(劇団運営、鑑賞運動等)に対して大変厳格であったことは事実であるし、稽古も大変厳しかった。しかも暴力的なことは一切無かったが、宇野先生が発する言葉には容赦がなかった。新人が見学中に緊張から失神したことがある。宇野先生は新人がいればそれなりに、稽古をしていたが、その新人さんにはそれでも、宇野先生の稽古の緊張が耐えられなかったのだと思う。
だが芝居は楽しいものだ。豊かなものだ。特に宇野先生の芝居は暖かかった。
楽屋も明るく、少しでも暗いと、宇野先生は怒っていた。
勿論米倉の楽屋も明るかった。芝居の話しばかりであっても、明るく楽しかった。
世界人類のために政治はあるかも知れないが(ありえないと思うが)、芝居は身近な人への愛で作られる。そしてその身近なものへの愛があって始めて、世界人類の平和に繋がるのだと思う。

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2015年

6月

07日

助サン 角サン

助サンと角サン
どのような芝居でも一人では出来ない、だから一人芝居は嫌いだと、米倉斉加年は常々申しておりました。その為に劇団に所属し、退団後は自ら一座を立ち上げたわけですが、時には他社(商業演劇など)出演もありました。
そんなときには必ず、二人のお伴がおりました。それは助サンと角サンならぬ、助川さんと山梨さんです。
舞台に立つ役者は等身大でありながら、等身大では役を演じる事は難しいのです。とは言え、映像のようにアップして、姿を大きくする事は出来ませんし、ウルトラマンのように大きくなることは不可能です。役者は等身大ではあってもその存在を大きくしなくてはならないのです。
舞台で役者が出来ることは役に集中することです。自分のこと、家族のこと、愛するもののことも忘れて、役に集中することです。その為に米倉は劇団で活動をしましたが、他社の舞台では二人の存在が米倉斉加年の集中を作りました。米倉は無私の心で役を演じ、その米倉を助川・山梨両氏は身を捨てた献身で支ました。地方公演では一月以上であっても寝以外は、舞台は本より劇場の行き帰りから、朝昼晩の食まで三人は共に過ごしました。
米倉と連れ添うように演劇を続けくれた人もいます。それは劇団民藝水品演劇研究所の同期生で、それ以降、常に近くに住み米倉斉加年の世界を共に歩いてきた尾鼻です。
宇野重吉にも、宇野重吉の演劇を支える人々がいました。山本泰敬、金田正子、内田喜三男、米倉斉加年、三平です。この6人は身を捨てて、宇野重吉に尽くしました。それぞれ才能豊かで、演劇人として一流でしたから、6人それぞれにシンパシーを抱く人は、宇野重吉を批判しました。それぞれの才能を殺したというのです。
しかし新劇は一人一人の意志で、一人一人の利己心を捨てて、演出家の志に呼応するものです。言い方を変えれば、志があって、その志に呼応してくれる仲間の力量で成果が決まるものなのです。
志を持ち、志によって人が集まり、その志を集団として創造し、その志をより多くの人々に伝播することが演劇活動ではないでしょうか。

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2015年

6月

06日

二人の巨匠とワイドショー

実社会と演劇
芸術家は実社会との関わりが薄いように思われているし、事実そういう人が多いと思う。しかし、こと演劇に関して言えばそれは正反対となる。実社会との関わりが無くして演劇は成立しない。実社会に生きているお客さまに見てもらうことで完結するのが演劇であるからだ。
宇野重吉と米倉斉加年には共通点が多々あるが、一つ面白い共通点がある。それは午後の時間帯のワイドショーでの定番である三面記事を好んでいたことである。ゴシップが好きであった。宇野先生に至っては週刊誌もよく読んでいた。米倉斉加年はとにかくテレビを付けていた。二人は何を見ていたのだろう。
二人は一緒にテレビを見ることもあった。他の人間からすれば何とも息苦しい限りであるが、二人は仲良くテレビを見た。狭いビジネスホテルの部屋でテレビを見た。芝居の話しもしたに違いないが、ほとんどは黙ってテレビを見ていたに違いない。
宇野先生はこんなことも言っていた。遊びは一人では駄目だ、将棋でも何でも良いから一人での遊びは役者は駄目だと言っていた。それで二人でテレビを見ていたわけでは無かろうが、二人は有識者や芸術家は見ないようなくだらないワイドショーをそろって見ていた。それも皆が仕事をしているときに見ていた。
但し、ワイドショーでは決して流すことのない、時事について、稽古の時によく話した。二人の演出の時は、時事についての勉強も欠かせなかった。
演劇は社会に疎いと上手くいかないのである。現実逃避の演劇ばかりではあるが、現実と向き合った演劇の方が面白い。

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2015年

6月

05日

役作り 代役方

台本の読み方 役作り
宇野先生の役の作り方に、代役方と言う作り方があり、よく教授していた。それは配役された役を、自らどう演じるかと考えるのではない。配役された役を他人に、それもその役に最適と思われる自分以外の役者に配役して、演じる姿を想像し、それをなぞるという方法である。
これは演出家ならではの発想と言えるかも知れない。役者はどうしても、役を自分のものとして、客観性を失い、主観的に役に向かってしまう。つまり、身勝手な偏った想いで、自分とは違う役を作ってしまうのである。その点演出は、自分で演じるわけでは無いので、あくまでも客観的な立場で、役者が役を理解する手助けをしながら、役者が役を理解するのを待つしかない。
代役方は、配役された役をその役の演出家として考えて、他の誰かに配役するということ事であり、その上で配役された役を自ら演出すると言うことである。
演出すると言っても、演技指導はできない。それは想像の中の役者の演出家なのである。ここで言う演出は台詞を理解するということである。それも意味内容より、その台詞がどのような音で発せられたかの理解だ。その理解は台詞の言い方を考えればよいというものでもない。その理解は人格と状況をしっかり読み解けくことであり、人格と状況が具体的に読めるようになると必ず音が聞こえてくる。
米倉斉加年は稽古をせずに台詞を覚えるだけで、主役で舞台に立ったことがある。それは代役方ではなく、代役そのものであったからであろう。私自身も米倉斉加年が演じた役を演じたが、台詞を覚えるだけで、演じる事が出来た。米倉が演じた時の鮮明なイメージに、ただただ身を委ねればよかったのである。

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