8月6日

この夏は忙しかった。オリンピックに甲子園。同時に『マサカネ一座』の旗揚げ公演である。
ヒロシマの日には、大橋喜一先生の奥様が亡くなられた。公演終了翌日にはお葬式に参列し、お盆にはお墓参りをさせて頂いた。
私は大橋先生の所に2009年より2012年に亡くなられるまで、週三日間通った。特別養護老人ホームの夫婦部屋であった。先生の話を聞くのが主なることであり、その話の主はトラさんこと奥様のこと(「トラさん」いつも怒られるので)であった。
大橋先生には大変優秀な息子さんがあって、老後は安泰であったのだが、その息子さんは二人の老後を安泰にして先立たれていた。それ以来、大橋先生は御自分の使命を、奥様の車椅子を押し続け、奥様を看取る事としていた。
大橋喜一は劇団民藝の座付き作家で、宇野重吉が劇団の創造面で、最も重視していた文芸演出部を、任されていた人物である。米倉斉加年の初主演となった、『コンベヤ野郎に夜はない』の作者で、リアリズム演劇運動の旗手であり、日本で最も上演回数が多い劇作家である。
大橋先生は奥様との二人きりの介護生活に限界を感じホームに入る事を決意し、(決意をさせるだけの充分な資産を先立たれた息子さんが作っていたこともあり、)御自分の蔵書や劇作のための資料を整理したいと、父(米倉斉加年)に連絡してきたのである。私が大橋先生のホームに繁く通うようになるのはホームに移ってからであるが、それはまだまだお元気で、下町育ちの大橋先生が東京大空襲を書きたいと言われたからであったが、ホームでは書くことはままならなかった。
小学生で二親を亡くし、祖父母に引き取られるが、働き手として高等小学校から働いていた。徴兵で召集されると、頭が良すぎたため(当人の言)、二度の召集にもかかわらず下士官にもなっていない。戦前は築地小劇場にも近寄らない方がいいと考える人々の中で育ったが、戦後は川崎の労働者となり、組合の書記局で文化活動を担うことになる。シュプレヒコールを書くようになり、職場作家(劇作家)となった。宇野重吉に請われて、劇団民芸の座付き作家となったのは、奥様が宇野先生の誘いを受けるように、大橋先生を説得されたからと、ご本人より伺った。