このページでは米倉斉加年の足跡をたどってみたい。

先ず始めに記しておきたいのは、青芸である。

米倉は20才の時に一度、松村達雄さん主催の創造劇場(別名50人劇場)に入るが、2年を待たたずに劇団は解散、一旦福岡に帰っている。しかし米倉は結婚し、新たな決意を持って上京し、難関である劇団民藝に入団する。その後、民藝研究所の同期生と共に、民藝の衛星劇団である青芸を立ち上げる。

 

役者 米倉斉加年の誕生 青芸 

1960年10月1日発行 青芸1 第1回勉強発表会 の公演パンフレットの冒頭文である。

 私たちは、若くて、貧しくて、無名な者の集まりです。そして元気な劇団です。
 昨秋、劇団民芸の俳優教室を修了して同期の仲間でこの劇団を作りました。その際、民藝の諸先輩から言葉につくせぬご援助をいただきました。滝沢・宇野両先生は我々の顧問になってお忙しい中を細かい点まで相談にのって下さっています。
 私たちは又、発足と同時に安保闘争に加わり、闘いを通じて沢山の誠意ある友人を得ることが出来ました。その上、安保体制打破新劇人会議の幹事劇団にえらばれました。
 その他沢山の方々のご援助のお蔭で、発足後一年もたたぬうちに最初の舞台を踏むことが出来ました。この様に幸運なスタートが切れたことを私たちは深く感謝しております。
 これからは、創造面をも発展させて、すばらしい芝居を作ろうと全員張り切っています。
 一層、ご援助、ご指導をお願いいたします。
 青芸一同

民藝宇野重吉は以下の文章を寄稿している。

宇野重吉
 何となく新劇人らしいような振舞いだけして、芝居のことは全く不勉強な「新人」の多い中で、「青芸」の諸君が、真面目に念入りに、自分たちだけでいろいろ工夫しながらやって来ているのはうれしい。民芸の研究所で学んだとはいっても、此方に時間がないものだから研究所自体ロクスッポ教えられるところではなかった。それをうらむどころか、卒業後、自分たちでグループを作り、コツコツと勉強をつづけ、今度発表会をやるから見に来てくれというのである。何かと力を貸してやりたい気持で一ぱいである。甘えもせず、小生意気にもならず、怠けもせず、ガツガツもせず、こんな気立てのいい青年たちは、そうザラには居まい。まだ人に見せられる芝居など、とても出来る筈もないが、たまには舞台に乗って「発表」したくなるのも無理はない。やるからにはビクビクしないで、少しぐらい間違ってもいいから活溌にやればいい。屁理屈ばかり言って、やらせてみれば何も出来ないネチネチした奴は僕はきらいた。そういう「新人」が多すぎるのだ。
 あわてず、ひるまず、慾張らずである。これからの永い演劇生活にいろいろむづかしいことがあるだろうが、根気強く、みんなで力をあわせてやって行ってもらいたいと思う。

 

民藝からは以下の推薦文を掲載している

 『青芸』の諸君は、劇団民芸附属演劇研究所からひきつがれた、民芸俳優教室の卒業生ばかりです。昨年の秋、卒業と同時に独立し、グループをつくりました。そして、将来は劇団活動を行なうことを目標に結束を固め、修業をつづけてまいりました。
 劇団民芸は、このグループに対して、先輩としての芸術上技術上の協力や交流を、できるだけ続けるように心がけておりますが、しかしそれも十分には果せないうちに月日が流れました。そして「青芸」の諸君は、とにもかくにも一年間の研鑽の上で、第一回の勉強会を持つことになったわけです。劇団というには、まだまだ力の足りない集団ですが、劇団民芸の血統の中から若々しい意欲にあふれた創造の芽が伸びひろがってゆくことを、私たちとしても、長い眼で見まもりたいと思います。
 皆様の隔意ない御指導によって成長してゆくことを期待しております。どうか御支援をお願い申し上げます。
一九六〇年九月