楽屋落書き

楽屋落書き 米倉斉加年
2003年9月博多座、11月12月芸術座 
2004年2月大阪梅田コマ劇場、3月名古屋中日劇場

平和は人が生きること
戦争は人を殺すこと
平和を目指して
  まっすぐ まっすぐ歩いていこう


'03東京芸術座
☆本の読み方と表現との関わり
セリフを手掛かりに本を読み、解釈する。セリフから役をつかみ、芝居の世界をしる。でもこれはあくまでも解釈であって表現ではない。
これを表現の第一段階と思ってはならない。表現は解釈と同一線上にあって解釈の彼方にあると思うのは間違いである。
解釈と表現は別レベルにあって次元の違うものである。
表現が解釈と同一線上にあって解釈の成熟が表現と思う役者は――
セリフの言い方(セリフ廻し)で役の人間性が出来ると思っている。故に役作りとはセリフ術と錯覚している。ストレッチや筋力トレーニングが役作りではないように、これらの技術、運動能力が役者にとっては大変重要であるがそれは、役者の素材、基礎的なもので表現創造ではない。
セリフの言い方、色どりで役を表わす行為は表現ではなく説明である。解釈の延長線上にあるのは表現ではなく説明である。

表現とは何か?
表現とは世界観、思想、哲学とも言える。
作者と同磁場に立つことでもある。
作者が〈ある人間〉の存在証明のために言葉をその〈ある人間〉の〈セリフ〉として書いたのなら〈セリフ〉から我らは〈ある人間〉にたどりつき、〈ある人間〉の思考、行動結果として〈セリフ〉を言う。
その〈セリフ〉は役者の主体(自我/存在)と対立する。その時、役(〈ある人間〉)と役者の葛藤が始まる。その役者と客との対立が生じたとき、客は上演されている劇的世界と対立する。
劇的なるものの誕生である。


'03東京・芸術座
☆役の解釈に絶対はない。
(例えば、代役でやる場合、初演でなく、再演で交替する場合。ダブルの場合。)
描き下ろし初演の場合はこの問題に表面的にひっかかることはないが、本質的には考え方としては同じである。
古典、名作の場合は、誰それはこうやったとか、また長期公演の場合は途中で交代することも多い。ある時はVTRを渡され、参考にしろならまだ良いが、先代の通りにやれと言われる。病気、負傷の不慮の事故の場合の緊急交代の場合は先代通りにする方が良い場合もある。というより、そうせざるを得ない。
あたかもそれは、絶対的な役の形象が存在するという考え方である。しかしこの考え方は間違いであると断言出来る。
創造に完成がなく終わりがないように造形に絶対はない。それは神に形を与えるが如きある。神を見た者がいないように究極の絶対の役の形象はないのである。
役は演ずる役者のそれぞれの中に存在するのである。


'03東京芸術座
☆森光子さんのセリフ二場面
〈女給部屋の語りと、血のところ〉
¡ イメージは計算では成立しない
¡ セリフは普通に説明しない
¡ 自分の放浪を語る時
  相手に話しかける
  独り言になる(心境)
  回想時(状況)
  役の相手に
  客へ           まじり合う。
  独白
複雑な色合いになる。
計算では(左脳的論理)では三~五くらいの色分けしか出来ないだろう。
感性にまかせた時、(そこに存在し、自分を現在、過去予測の世界に遊ばせた時)それは無限に近い色あいを生み出す。
語りセリフの塩梅

喀血の場は
即物的に色をつけす、悲壮感もなく、呼吸の間と強弱だけ。感情を排除したところが絶品。説明ではなく、事実が浮き上がる。


'04大阪・梅田コマ
☆演技は人格に支えられ役者の品格となる
うまい技術とは、セリフ廻しを聞かせ、見せることだと思っている役者いるが、それでは心は伝わらない。心が伝わらない言葉は死んでいる。うまさ(見かけの 上辺の)を見せるのは品がない。(しかし美事な真のうまさ、名人芸は別である。「芸」は美であり、破壊的である。恐ろしい、孤独なものである。)
(うまさ=見せびらかし と「芸」(うまさ)=美→心のやすらぎは別である。権力へ金になびかない。)
詐欺師と政治家はウソをついているから立て板に水の弁説さわやかよどみがない。
よどみがないセリフ廻しはウソである。
人間は、ウソをつくときはよどみがない。
懸命に語るのと、セリフ廻しのなめらかさは別である。


'04名古屋中日劇場
☆「役」は役者の生命と共にある
病気の時は病気のまゝに。
声が出ないときはでないままに。
心の窓口は日々変化してかまわない。
時の流れ、生の流れにまかせて、
その時々のコンディションの中で演じる時、
その役者の生命が、コンディションが、
その時の精神状態がそのまゝ反映すれば良い。
演技とは=人間の生きざま
芸術とは=生きているかぎり、生きる、それが表現
        ※生きていても、生きる力が衰えた時、表現は終了する。


'04名古屋・中日劇場
☆役者の個性とは
芸術おけるオリジナリティーとは
¡ 人に従属しないこと
¡ いやしくないこと
¡ 誇り高く孤高であること
¡ 権力に屈しないこと
        ※それは日常の生活の中で培われる
一般人と同じではいけない。そして一般人と同じ感覚と生活を持ってなければ、いやそれ以下の生活意識を持ってなければならない。
¡ ただ(無料)だからムヤミに使うとか食べるでは、人間の節度がない。そこにその人の人間性が見える。
¡ 長所は多くの人々と共通している。そしてもっと上が必ずいる。声の良い人、顔の良い人、体(スタイル)良い人、等―。
¡ しかし欠点、短所はおそらくその人だけのもの、これを、この負を正にすれば良い。
¡ どんなに困っても、権力者、金持ちに頭を下げるな。友人に相談しろ! そんな友人を持て。助けられて、上下関係をつくるな。家来になるな。
¡ 無料(ただ)でも有料でも、家庭でも、どこでも、
    人間が変わってはならない。
    食が変わったり、態度が変わったり、使い方が荒く品物を無駄使いしてはならない。
¡ どんな人にも同じように対応する。
    エライ人、エラクない人、若い人、老人、外人、日本人、金持、貧乏人で対応が違ってはならない。
◎その人間しか持ってない特徴(あるいは長所)とは何か、どうしたら育つのか。


'04名古屋・中日劇場
☆役者の仕事
今日舞台でカフェーの場で、林芙美子、日夏京子と三人だけの場で、ふと、俺の一生はこれで良いのかと思った。
俺は新劇を志して上京し宇野重吉の弟子となった。
一七〇〇回の名舞台に自分も一〇〇〇回出演出来ることは、役者名利につきるし、光栄なことである。
でも、俺はこれで良いのか、自分の仕事をなしたか?!  客が入らなくとも、世界で評判にならずとも良い。
自分の仕事をなしたか?


☆'04.3.9放映TBS〈波瀾の人生スペシャル女優森光子83歳〉
「いま命絶えても幸せです」(名古屋CBC夜9:00)

まず、美しかった登場女優の誰よりも若く美しかった。
東山君とは四十才の差があるのだろうが、恋人といってもすがすがしく、イヤラしくなく……東山君の人柄も良いが、森さんが若く初々しく成立させている。
大苦労話しがなく、説教がなく、それでいて広い世界がうかがえ、説教がないだけに深みを見る。芸の奥義神秘性を売りものにしないからこそ、その魅力がミステリアスになる。神がかり、芸の神様でなく、芸人が昇華して、芸の華を咲かせた。現代の大女優。だれもなし得なかった、軽業師のような全部自分で出来る。つまり、新作もそして全編に出演、セリフも一番多い。こんな役者は、世界中にいない。

遠い世界の玄人。神秘的な世界に住む人――。
そんな人と毎日同じ舞台に立っている。これは本当だろうか、ここは名古屋だ、そして中日劇場で上演中だ。俺は役者だ。俺は役者だが……ほんとに役者なのか。
俺には何が出来るから役者と言えるのか。
森光子さんには、芸と才能がある――。

 

にあるのは表現ではなく説明である。

表現とは何か?
表現とは世界観、思想、哲学とも言える。
作者と同磁場に立つことでもある。
作者が〈ある人間〉の存在証明のために言葉をその〈ある人間〉の〈セリフ〉として書いたのなら〈セリフ〉から我らは〈ある人間〉にたどりつき、〈ある人間〉の思考、行動結果として〈セリフ〉を言う。
その〈セリフ〉は役者の主体(自我/存在)と対立する。その時、役(〈ある人間〉)と役者の葛藤が始まる。その役者と客との対立が生じたとき、客は上演されている劇的世界と対立する。
劇的なるものの誕生である。