戦後の新劇

新劇という名の演劇とは

今ではほとんど言われなくなってしまった、新劇という演劇があります。
新劇、それは現代の演劇の原点です。大正13年(1924)土方与志(ひじかたよし)・小山内薫らが東京築地に創設した、築地小劇場で生まれました。

江戸から明治に時代が移り、廃刀令、断髪令が施行され、風俗が変わりました。洋服で生活する人々が出て来ました。演劇は風俗を描くものではありませんが、風俗で描くものでですから、新たな演劇が必要となったのです。

新劇以前にも新しい演劇が試みられました。ですが、それは江戸時代に盛んであった歌舞伎(農村部まで浸透していました)の形をしていました。日本での舞台表現(演劇)は歌舞伎しかありませんでした。ですから新しい時代やシェイクスピアを上演する時も、台詞は歌舞伎の台詞で、語りは浄瑠璃語り、衣装は和服で騎士は侍となり、上演時の新しい風俗で描かれた芝居は、ほとんど観られませんでした。
ですが、観客の方は新しい風俗となっていきましたから、舞台の風俗(装束、語り口)は、新しい風俗を取り入れる必要がありました。

坪内逍遥はnovelを訳し、小説として散文体で表現する新しい文学の分野を拓きました。文語体や漢文、和歌、短歌などで表現する文学のみでは、現実の社会と向き合う事が出来なくなっていたのだと思います。舞台表現からは台詞を散文体とした、戯曲という新たな文学の分野が生まれました。
戯曲という新しい言語(台詞)を得た演劇は、新劇と名付けられます。それはは旧劇(歌舞伎と歌舞伎から派生した演劇)に対して命名され、新劇とされました。
新劇は戯曲(初期は翻訳が多かった)、演出、俳優(演技者)という三つの分野からなる、今も続く現代演劇の形を生み出しました。旧劇に於いては型で表現していましたが、新劇では戯曲に書かれた台詞で表現するようになりました。

 

マルクス主義から生まれた、リアリアリズム。
時代は階級社会から、権力は残っていましたが階級のない社会になりました。それは旧劇の型では表現できない、新しく生まれた大衆(階級)が生きる社会でした。その新しい社会を、社会を支える大衆を、新劇は描き出していきました。一人一人を描くことで大衆を描いていきました。
新劇は芸術分野の牽引車として新時代を切り拓き、歌舞伎に変わり、演劇の代名詞となります。新劇は現代演劇の基礎となるばかりではなく、大衆芸術という新しい芸術の旗手となったのです。

日本での近代文学の夜明けを代表する、坪内逍遙の『小説神髄』は、1985年(明治18年)に書かれています。近代演劇の祖と言われるヘンリック・イプセンの「人形の家」は1879年作(明治12 年)ですから、芸術文化においての近代化は欧米とほぼ同時に行われていきます。
スタニスラフスキーは、現代演劇の基本となっているリアリズム演劇の方法論を確立しました。同時期に日本でもリアリズム演劇が入ります。築地小劇場は新劇を興し、日本でリアリズム芸術の拠点となります。そしてリアリズムは築地小劇場の久保栄、村山知義によって社会主義リアリズムとして確立されていきます。久保栄の『火山灰地』、村山知義の脚色した『夜明け前』(島崎藤村)は現代演劇の象徴とも言えるリアリズム演劇の代表作品です。

そして新劇は芸術分野の牽引車として新時代を切り拓き、歌舞伎に変わり、演劇の代名詞となります。新劇は現代演劇の基礎を築きました。