アンデルセン 『絵のない絵本』

米倉斉加年・テルミ 作

原作

絵のない絵本 作・アンデルセン 訳・矢崎源九郎(新潮社文庫刊)

友情夢譚 作・米倉テルミ(ドメス出版)

道化口上 作・米倉斉加年(影書房)

絵本 おとなになれなかった弟たちに…… 作・米倉斉加年(偕成社)

月の話しに、道化口上として、米倉斉加年の物語を入れました。道化口上は米倉斉加年の造語です。米倉は自らを称して、ピエロ(道化)の絵を描いていました。そして、自らのエッセイ集の題名として、『道化口上』としています。米倉テルミの小説『友情夢譚』と合わせて構成し、戦後民主主義教育の一期生として学び、宇野重吉より学んだ「普通に言う」演劇に生涯を捧げた、米倉斉加年の原点を、残された斉加年一座全員でたどります。


『おとなになれなかった弟たちに……』の朗読は、文章、原画と共に、米倉斉加年が、共に芝居を作ってきた私たちに残した、大切なものです。米倉斉加年の朗読を継承し、再創造してお届けします。この作品は一九八三年に偕成社より出版され版を重ねています。一九八七年よりは中学一年生の教科書(光村図書出版)に採用されています。米倉斉加年はこの作品で、美しくない日本語が使われていた時代を、美しい日本語で綴っています。

米倉テルミ脚本米倉斉加年演出 アンデルセン『絵のない絵本』

ご挨拶

この度は海流座内部の混乱(一人の人間の錯乱としか言いようのない行為による混乱)から、皆様にご迷惑をお掛けしまして、まことに申し訳ありませんでした。
しかし、そうした中で、公演決定をご決断頂きまして、まことにありがとうございました。

今回の作品を父は、母と共に歩いてきた演劇人生の最後の作品にするといっていました。
六〇年間、仕事のことでは喧嘩ばかりしてきた二人でしたが、ここ数年は二人っきりで、ままごとのような生活をしていました。私はいつでも手伝いに行くといっていましたが、仕事以外は二人で嘘のようにのんびりしていました。
そうした平穏な日々でしたが、最後に父は母に戯曲を、母は父に役を送りたかったのです。喧嘩の種である仕事をさせたかったようでした。その思いがこの作品でした。
生きている時には、形とはなっておりませんでしたが、二人の思いと、素材は揃っていました。それを残された、座員と共に私がまとめました。この一年間、それだけを考えて過ごしてきました。それは父も同じであったと思います。その気持ちを支えていたのは、母への思いでしたが、北海道の巡回公演が現実味を与え、前に進むことができました。
私たちは夢を売る仕事ですから、迷うことが多々あります。しかし、私たちにはそれを正して下さるお客さまがいました。この一年どれだけ皆様に助けられたか分かりません。
まことにありがとうございました。

役者としての米倉斉加年のパートナーは米倉テルミ一人でした。しかし演劇人米倉斉加年は多くの同志と共に芝居を作ってきました。特に宇野先生(宇野重吉)との時間は米倉の演劇人生に於いて特筆すべき時間でした。それは米倉の集団での創造の基礎を築きました。そしてそれを残してくれたのが、米倉が作った海流座でした。
父は母と結婚し、役者となり、宇野先生の劇団に入り演劇人となり、皆様に愛される舞台を作る事が出来たのだと思います。
私たちは未熟ですが、米倉斉加年の役者としての志と、米倉と共に培ってきた集団の創造にこれからも努めてまいります。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

    絵のない絵本
    第一夜

若い絵かき 月は始めてたずねてきた晩に、私に言いました。
 月   いいかな、私の話す通りに絵をお描きなさい。そうしたら、きっと、きれいな絵本が出来ますよ。ゆうべ。
若い絵かき と、月は話しを始めました。
 月   わたしは、インドの澄みきった空気の中をすべって、ガンジス河にわたしの姿をうつしていました。わたしの光は、古いプラタナスの葉が、ちょうどカメの甲のように盛り上がって、茂っている生垣の中に、さしこもうとしていました。
          するとそのとき、茂みの中から、カモシカのように身軽で、イブのように美しい、ひとりのインド娘が出てきました。このインド娘は、なにかしら空気のように軽やかでしたが、それでいて、ぴちぴちとした、ゆたかなからだつきをしていました。わたしは、この娘のきゃしゃな皮膚をとおして、考えていることを読みとることができました。とげのあるつる草が、娘の履物を引きさこうが、そんなことにはかまわずに、娘はいそいで先へ進んでいきました。その上、のどのかわきをうるおして、河から帰ってきた野獣にも気がつきませんでした。もっともこの野獣は、娘を見るとびっくりして、飛び退いていきました。むりもありません。この娘は、赤く燃える炎を手に持っていたのです。娘は炎が消えないように、そのまわりに手をかざしていましたから、わたしはかぼそい指の中の、いきいきとした赤い血を見ることができました。
          娘は河に近よって、炎を流れの上におきました。すると、炎は流れにつれて、くだっていきました。ほのおは、いまにも消えそうにちらちらしました。それでも、もえつづけていきました。娘の黒い、きらきらかがやく眼は、長い絹糸のふさのような、まつ毛の奥から、魂のこもった眼つきをして、その炎のあとを、じっと見おくっていました。娘は、その明りが、自分の眼に見えるかぎりのあいだ、もえつづけていれば、愛する人はまだ生きている、けれども、もしも消えてしまえば、もうこの世にはいないのだということを、知っていたのです。見れば、炎は、もえながらふるえました。娘の心も、もえあがって、ふるえました。娘は膝まずいて、祈りました。すぐそばの草の中に、ぬらぬらしたヘビがいました。けれども娘は、梵天王と自分の花婿のことしか考えていませんでした。
 娘   あの人は生きている!
 月   娘は喜びの声をあげました。すると、山々からこだまがかえってきました。
 娘   あの人は生きている!
   
    第二夜
   
 月   昨日のことです。わたしは、小さな中庭をのぞいていました。そこには、一羽のめんどりが、十一羽のひなどりたちと寝ていました。すると女の子が入って来て、はねまわりだしたのです。めんどりはびっくりして、コッコッコと鳴きながら、羽をひろげ、小さなひなどりたちを必死に守っていました。そこへ女の子の父親が出てきました。
父 親  何をしているんだ、鶏たちがびっくりしているじゃないか。早く出て行きなさい。
 月   女の子は黙って出て行きました。わたしはそれで安心して、先へすべっていきました。
          ところが今夜、それもほんの二、三分前のことですが、わたしは、またおなじ中庭で同じ光景に出くわしたのです。
父 親  おまえは、ここでいったい何をしようというんだ? おまえは自分がしていることがどんなにひどいことか分かっているのかい。
女の子  あたしはね……この中へはいって……、めんどりにキスをしてやって……、きのうのおわびをしようと思ってたの。だけど、おとうさんには、どうしても、言えなかったのよ!
 月   それを聞くと、父親は、このむじゃきな、かわいい子のひたいにキスをしてやりました。わたしも、その眼と口にキスをしてやりました。
   
    第七夜
   
 月   波打ちぎわにそって、カシワの木とブナの木の森があります。その森には。春になると、幾百ともしれないナイチンゲールが訪れてきます。そしてこの森と永遠に姿が決まることのない海の間を、広い道が通っています。馬車がつぎからつぎへと走って行きます。わたしの眼は、その道の一つの点に留まります。それは大きな塚です。キイチゴの蔓とリンボクが、石の間からのびています。ここに、自然の中の詩があるのです。
          きみは、人々がこれをどんなふうに考えていると思いますか? そうだ、わたしがそこで、きのうの夕方から夜にかけて聞いたことだけを話してあげましょう。
          まず金持の農夫がふたり、馬車に乗ってやってきました。
         
    波の音、少し遠くに、今夜は風は、静かであるらしい。
    馬車に乗った二人の男。Aは自分の馬車だから手綱をもっている。AとBは街に用があって行くらしい。
    森の方を眺めていたB。
   
 B   おい、ここらの木はいつの間にか、見事に育ったな!
 A   ああ、一本あたり十束くらいの薪は採れるな。
 B   この冬もきびしい寒さになるてと、 薪はいくらあっても御の字だ。
 A   ああ去年は一坪十四ターレルで売れたっけナ。
 B   ふん、てと寒さも、さまさまってわけだ! ハハハハ!
 月   別の馬車がやってきました。
   
    馬車がゆれる。
   
 C   ここは、いつも道がわるくてな!
 D   ああ、そりゃあのいまいましい木のためさ。
 C   ここは海のほうからしか風が吹いてこないんだからナ! 仕方ない、仕方ない。
 D   まーこうしてゆられながらもここの景色は素晴らしい。とにかく通れるんだもん、ありがたい、ありがたいと言うわけだナ。
 月   この二人も通りすぎて行きました。次に駅馬車が通りかかりました。ですが、お客はみんな眠っていました。
御 者  いつもながら、ここの景色(ながめ)は、一等賞もんだ。にもかかわらず、皆さんはいつだって、よくお休みだ! ま、いいでしょ、一寸一曲、吹かせて頂きますよ。

    御者はラッパを取り出し、吹き始めます。
    しかし、ラッパの音にも客は目覚めません。
   
御 者  よほど、この御者の腕前がよいらしい。それにしても、おれの吹き方もうまいもんだし、それによ、ここに来ると一段といい音が出る。皆さんどう思います?
   
    客は相変わらず、皆眠ったまま。
    駅馬車はそのまま走り去ります。
    今度は、反対側から若者二人、馬に乗って、髪をなびかせながら、やってきます。
   
 月   こんどは、ふたりの若者が馬をとばしてやってきました。この若い二人の血の中には青春とシャンパン酒があるな、とわたしは思いました。このふたりも、口もとに微笑をうかべながら、苔のむした丘と薄暗い茂みのほうをながめました。
若者一  ああい気持ちだナ。
若者二  本当に、ここは空気が、美味(うま)いよナ。
若者一  今度、水車小屋のクリスチーネと一緒に、ここを散歩したいなぁ!
若者二  美味い空気を吸わせてあげる、ってかい?
   
    二人は笑いながら駈けて行く。
    そこにまた集合馬車が来る。中にはやはり六人の客がいる。その内四人は眠っている。起きている二人の内1人は、何か考え事をしているらしい。
   
 月   それから、ふたりは駆け去りました。あたりの花は、たいへん強くにおいました。そよ風は静かにまどろみました。海はまるで、深い谷の上にひろがっている空の一部になったかのようでした。
          また一台の駅馬車がやってきました。中には六人の客が乗っていました。そのうち四人は眠っていました。五人目の男は、自分によく似合うはずの、新しい夏服のことを考えていました。六人目の男は、御者のほうへからだを乗りだして、たずねました。
客 一  あそこに石が重ねてある、あれは特別のことでもあるのだろうか?
御 者  いいや、ただ石が積み重ねてあるだけでさあ。だが、あっちの木の方となると、特別なことありますて!
客 一  どうしてだい?
御 者  どうして特別だか知りたいってかい? それはさ、旦那、冬になって、雪が深くつもりますってえと、何もかも一面に平らになってしまいまさ。そんなとき、あっしの目印になるのが、あの木でしてね、あいつを頼りにして行くからこそ、海にもはまりこまねえですむってもんでさ。だからね、あいつは特別なんですよ!
 月   そう言って、この駅馬車も走り去りました。そこへ、ひとりの画家がやってきました。その眼はきらめきました。一言も物を言いませんでした。画家は口笛を吹きました。ナイチンゲールが歌いはじめました。一羽また一羽と、だんだん高く。
画 家  だまれ!(と、鳥たちをどなる)
          今日のこの夕暮れに、絶妙な自然な色合いを、どうとどめるか。一瞬、刻一刻と変わる木々の色。集中して写さなければならない。自然の色は、季節と時間とで変わるのだから。今、ぼくには君達の歌を聴く余裕なんかないんだよ! 
 月   画家は、すべての色とその濃淡を非常にくわしくかきとめました。『青、薄紫、濃褐色!』これはすばらしい絵になるでしょう! 画家は、鏡がものの姿をうつすように、それをうつしとったのです。そしてそうしながら、ロッシーニの行進曲を口笛で吹いていました。

          私が最後に見たのは貧しい女の子でした。女の子は塚のそばに荷物を降ろして、休んでいました。美しい青白い顔を森のほうへ向けて、そこからひびいてくる物音に耳をかたむけていました。海のかなたの大空を見上げたとき、女の子の眼はきらきらと輝きました。両手が合されました。(『主の祈り』をとなえたように思われます。)この子は自分で、自分自身の中を流れている感情がわからなかったのです。しかし、わたしは知っています。月日がどれだけ流れようとも、この瞬間、この自然が、画家が作り出すいかなる色よりも美しく、画家が鏡のように写すよりさらにいっそう忠実に、この子の思い出のうちにときおり生きかえってくるだろうことを。
          わたしの光は、暁(あかつき)の光が女の子のひたいにキスをするまで、この子の後について行きました!
   
    第十三夜
   
 月   わたしはある編集室の窓をのぞきこみました。そこはドイツのどこかでした。その部屋には、りっぱな家具と、たくさんの書物と、乱雑に積みかさねた新聞がありました。男達が幾人もいました。編集長自身は大きな机のそばに立っていました。二冊の小さい本が、いずれも若い作家の書いたものですが、それが批評されることになっていました。
編集長  この一冊は僕に送ってよこしたものなんだが
 月   と、編集長は言いました。
編集長  ぼくはまだ読んでいない。だが、きれいな装幀だね。内容はきみたちどう思う?
詩 人  ええ、
 月   と、ひとりが言いました。この人自身詩人でした。
詩 人  とてもいいですよ。すこし長たらしくてだらだらしていますが、まあなんといっても若い人ですからね。詩句にしたって、もうすこし直すこともできるでしょうし、思想はたいへん穏健です。もちろん、ごくありふれた考え方ですけども、しかし、どう言うべきでしょう? 何か新しいものをみつけようったって、そう簡単には見つかるわけじゃないんですから、ほめてやっていいと思います。といったところで、この男が詩人としてりっぱなものになろうなどとは、ぼくもけっして思ってはいませんよ。ですが、ともかく知識もあり、すぐれた東洋学者でもあり、またたいへん穏健な批評をする人なんです。実はぼくの〝家庭生活についての随想録〟にりっぱな批評を書いたのは、この男なんですよ。若い人に対しては寛大でいてやりたいものです
紳 士  いや、あれはまったくの愚か者ですよ。
 月   と、この部屋にいたもうひとりの紳士が言いました。
紳 士  詩では凡庸ということぐらい悪いことはありませんよ、そうでしょう。あの男のきたら、一歩も凡庸以上に出ていないんですから、愚か者ですよ。。
第三の男 かわいそうなやつ!
 月   と、第三の男が言いました。
第三の男 知りませんでしたか、この男の叔母さんは、この男のことを喜びとしているんです。その叔母さんというのは、編集長さん、あなたのこのあいだの翻訳に大変大勢の予約者を集めてくれた人なんですよ――
編集長  えッ、ああ、あの親切な婦人ね! うん、ぼくはこの本をごく簡単に批評することにしたよ。疑う余地なき才能! 歓迎すべき天賦の素質! 詩の園に咲いた一輪の花! 装幀もいい、などとね。……ところで、もう一つの本はどうだろう! あの著者は、ぼくにも買わせようという腹らしい。――評判はいいよ。あの男は天賦の才をもっているんだね。君たち、そう思わないかね?
詩 人  ええ、みんなはそう言いたててますね。だけど、すこし粗雑ですよ。コンマの打ち方なんか、あまりにも天才的すぎますね。あの男は寧(むし)ろこきおろしてやって、ちょっとくらい腹をたてさせたほうがいいと思いますね。さもなきゃ、のぼせあがってしまいますからね
紳 士  しかし、それは不当です。(大声に)そんな小さい欠点ばかりをかぞえたてないで、いいものを喜びましょうよ。しかもここには、それがたくさんあるんです。まったく、あの男は衆をぬきんでていますよ.!
第三の男 とんでもない! もし仮にあの男がほんとうの天才だとすれば、このくらいの鋭い非難にだったら難なく耐えることができるはずだ。あの男を個人的にほめる者はいくらでもある。われわれはあの男を慢心させないようにしようじゃないか!
編集長  疑う余地なき才能!(書きながら)だれにもありがちの不注意。この著者にもまた、このような不幸な詩句を書くことが、二十五ページに見いだされる。そこには二つの母音重複がある。先人の教えについて、さらに研究されんことを切望する、云々。
 月   わたしはそこを立ち去りました。それから、その叔母さんの家の窓をのぞいてみました。そこには評判のいいおとなしい詩人が、招待されたすべての客から賞讃されてすわっていました。この人は幸せでした。
          わたしはもうひとりの詩人を、粗雑な詩人をさがしました。この人もまた、ひとりの後援者のところに集まった大勢の人々の中にいました。そこでは、もうひとりの詩人の本が話題にのぼっていました。
後援者  わたしはもちろんあなたの本も読みますよ。
 月   と、後援者が言いました。
後援者  しかし正直に言うと、あなたも知っての通り、わたしは自分の思っていることをなんでも言ってしまう人間ですから、言ってしまいますが、こんどの本に対してはそんなに期待していませんよ。あなたはあまりに粗雑すぎる! 空想的すぎる――といっても、あなたが人間としてきわめて尊敬すべき人であることは、わたしも認めています。
 月   ひとりの若い娘が片隅にすわって、本を読んでいました。
 娘   ――天才のほまれはどろにまみるれど、凡庸のわざは空高くかかげらる!――こは古き語り草なれど、なおつねに新たなり!
   
    道化口上

 手鍋下げても
   
    粗雑な詩人は彼であり、娘は彼女である。
   
 月   私は焼け跡の残る、東の国を訪れました。そこにも若き素質がありました。それは絵の上手い、役者でした。まだ役者としては誰にも知られていませんでしたが、彼には、彼を贔屓にする、彼女がいるようでした。
彼 女  合格おめでとう。
 彼   ありがとう。
彼 女  バスケット部にはいつから参加するの、入学前から練習にでなきゃいけないんでしょ。
 彼   実は俺、大学ではバスケットはやめて、芝居をやることにした。
彼 女  まぁ、どうして。バスケットでひっぱられていたんじゃないの?
 彼   バカだなぁ。それなら浪人はしないよ。まぁ迷ってはいたんだけどね、でもやっぱりバスケットで大学に入ることはやめたんだよ。第一バスケじゃ食っていけないからね。
彼 女  そうだったの。(間)
 月   この若い役者は、高校時代はバスケットで活躍し、大学から誘われていましたが、役者を目指し、浪人して家業の炭屋を手伝いながら勉強をしていました。
 彼   ……本当は絵描きか、役者かで迷っていたんだ、……でも、アイツ、菊田のような絵は俺には書けないと思ったんだ、……だから俺は、役者を目指すことにしたんだよ。絵の上手下手でいったら俺が上なんだけどね。
 月   彼は浪人中でしたが、初めてのプレゼントとして、店で一番上等の炭俵を彼女の家に、持って行き、付き合うようになって居ました。二人が出逢ったのは尋常小学校が国民学校となった年の入学式でした。その頃は男女別のクラスでしたので、名前を知っている程度だったでしょう。中学は敗戦後、男女共学となった新制中学、一期生でした。それも校舎は米軍に接収され、馬小屋学級という、馬小屋を改装した教室でしたから、二人の学年は男女を問わず、深い結びつきがあったようです。高校も同じ公立高校でしたが、大学は別でした。彼女は女子大に行き、彼は一浪して、私立の大学に演劇部に入って演劇に没頭していました。
 彼   いっぱい動員してくれてありがとう。
彼 女  みんな頑張っていたはね。夏休みが終わると試験ね。準備は出来た?
 彼   公演の期間中サボってばかりいたから、ノートを借りて写すだけでも大変さ。
彼 女  わたしは、課目が少ないし、専門ばかりだから、平気なの。試験が終わったら、旅行に行くのよ。うれしいナ! 生まれて初めて東京に行くの。
 彼   東京か。俺、東京の大学に入りたかったナ。東京にいれば、演劇の勉強だって、大学に行きながらだってやれるもんな。
彼 女  そうね。世界が広がるよね。私は、父の前に座り込んで頼んだのよ。でも、駄目だったわ。
 彼   俺の場合は、経済的な理由。金がない、それで終わりさ。
彼 女  私はこれといった具体的な理由はなくて、単に世界が広がるというだけだったの。でも、あなたは一生演劇をやるつもりでしょ?
 彼   うん、そうしたい。
彼 女  それなら……。
 彼   俺、長男だから、親も養わなきゃならんし、妹たちも小さい。芝居のことだけを考えてはいられないんだよ。
彼 女  そうよね……でもね……。わたし思うんだけど、あなたが、一生演劇を続けたいと思うんだったら、やっぱり東京に出て、そして基礎からしっかり演技を身につけるべきだと思うわ。仕送りもそんなにたくさんじゃなくって、いま出して頂いているだけ出して頂けばなんとかなるんじゃない。あとはアルバイトをしてまかなうことにすれば、ね。
 彼   うん、それはそうだけど、そうは言っても、東京に行けば、必ずいい役者になれるというものでもないし、君の家と違って、男は俺一人だからな。
彼 女  ……そうね……、それに、ここに居ても、貴方はずいぶん学ぶこと多いものね。こないだの公演は演出だったけど、私は素晴らしいセンスだと思ったもの。
 彼   ありがとう。そうなんだよ、合同公演で知り合った、よその学校の人たち、すごくいろいろと勉強していて、俺、ずいぶん教わったよ。今も良く会うけど、本当に勉強になる。この街のレベルって、なかなか高いんだよ。
彼 女  そうよね。優秀な人たち多いわよね。
 彼   そうだよ……。それで、君の旅行、いつ出発?
彼 女  来月の7日。最初は関西をまわるの。吉野にも行くのよ。万葉旅行と言うよりは、古典を求めての旅。
 彼   優雅なもんだな。
彼 女  そうでしょう。関西で一応解散してね、林さんや数人で東京へ行くの。神田の古本屋さんで、卒論の本などさがしてみようと思って。美術館も回りたいし。
 彼   そうか、いいな……。試験終わったら、出発前に逢える?
彼 女  もちろん。あなたさえよければ、いつでもいいわ。
 彼   じゃ、6日、出発の前の日に逢おう。
彼 女  お互い、試験がんばりましょう。かんばってよね!
 彼   ああ、じゃあね。(彼は一人になって、幼き日を思い出す。)
 月   彼は大学の演劇部で活躍していました。演劇部の代表として他の大学との合同公演にも出演していました。合同公演では生涯の友となる同志を得ていました。そして彼女は彼の夢を信じて応援し、彼の舞台に大勢の観客を動員していました。しかし彼は迷っていました。
          彼は幼き日、近所の兄ちゃんに掛けられた言葉を思い出していました。
   
    回想の中に兄ちゃんの声が聞こえてくる。
   
兄ちゃん  マサカネちゃん、大きうなったら東京へ行って役者になりンしゃい。
 彼   彼女の言うとおりだ、俺は東京に出なくちゃ駄目なんだ。(間)東京に出て芝居の勉強をしよう。
 月   彼は東京で、小さな劇場を持っている劇団の、研究生となりました。彼は単身東京に出て役者となる事にしたのです。
彼 女  これを持っていって。アンデルセンの『絵のない絵本』これはあなただと思う。あなたは東京に出ればきっと、自由になれる。やろうとすればするほど出来なかったことが、出来るようになる。私そう思うの。
 彼   ありがとう。アンデルセンか。
 月   旅立ちは巣立ち。親から離れがたければ離れがたいほど、離れる力も強くなる。それは自立の自覚となる。その時はじめて親子の絆もはっきりと、見えてくる。彼の父親は彼の東京行きを納得しませんでしたが、彼は三日間の断食と、母親の口添えで、とにかく一度東京へ行くことをゆるされました。
          彼は劇団に入りましたが、当初は演出部要員でした。彼は一人で武者小路実篤の『その妹』のセットを制作しなければなりませんでした。一週間寝る間を惜しんで制作しました。最後の三日間は不眠不休の製作でした。
座 長  出来たね。たいしたもんだ。君だったらきっとやってくれると思って、入団してもらったんだよ。いや、本当にたいしたもんだ、こんなちゃんとした道具で、これまでやったことがないよ。何だかちゃんとした劇場になったみたいだよ。本当だよ。ありがとう。ありがとう。大学で経験があると言うんで、裏の仕事も少しは出来るかなという程度だったんだが、ここまでやれるとはね。本当恐れ入ったよ。いやぁまいったまいった。すごいよ、君は。
 彼   絵の具がもう少しで乾きます。ギリギリまでこの七輪で乾かします。
座 長  いやァ、これで上等だよ。ありがとうありがとう。
   
    女性が一人入ってくる。
   
女 客  まだ入っては駄目でしょうか?
座 長  いえいえ、どうぞどうぞ、お入りください。
   
    彼はあわてて道具を片付けて、お茶を出し、七輪を持って行く。
   
女 客  ありがとうございます。まだどなたもお出でではないのですね。
  彼   もうしばらくお待ち下さい。もうそろそろみなさんお見えでしょうから。
女 客  わたし、武者小路実篤が好きなんです。特にこの『その妹』が好きです。すごく長いし、少しくどいように言われていますけど、私好きなんです。
 彼   ありがとうざいます。もうすぐ始まりますから、ごゆっくり御覧下さい。
 月   もう始まる時間でしたが、客席は一人だけでした。
 彼   もう時間ですけど、客席は一人ですよ。どうしますか? 少し待ちますか?
座 長  ふむ、そうだな、どうしよう。あの客はずっと始まるのを待っているしな。どうするかなぁ。
 彼   お客さまには説明して、説明と言っても何と云えばいいか分からないけれど、とにかくこういう状況なのでと言って、今日は中止にさせて頂きますと言ってきましょうか。
   
    座長は彼の話を聞いているのであろうか、友人1の高峯役と台詞の稽古を始める。
   
座 長  (西島役になって)君がくるだろうと思っていた。
友人1  (高峯役になって)旅行はどうだった。
西 島  別に面白いこともなかった。それより今日面白い人にあった。
高 峰  誰に?
西 島  野村に。
高 峰  野村? 盲目の?
西 島  ああ。
高 峰  どうして?
 彼   (座長の様子に)しょうがない、とにかく、間もなく始まりますと、伝えてきます。
座 長  そうだな、そうして下さい。
   
    彼は客席に回る。
   
 彼   間もなく開演します。ごゆっくりご観劇下さい。
女 客  あのどなたもいらっしゃらないけれど、私が間違って来てしまったのを、特別にやって下さる分けじゃないわよね。
 彼   いえ、いえ、違いますよ。今日が初日です。
女 客  でもこれじゃあね。私、出直してきましょうか?
 彼   とんでもない、どうぞいらして下さい。間もなく始まります。
   
    彼は裏に戻る
   
 彼   やっぱり今日は休演にしませんか? あのお客さんも出直します。と言っていますよ。
座長(西島)  (台詞の稽古をしていて、返事をしない)昨日遅く帰って来たので今朝、不在に来た手紙を見ていたのだ。すると女の手の手紙があるのだ。見ると野村広次拝とかいてあるのだ。僕ははっとした。野村の妹がかいたのだなと思ったのだ。僕はすぐ封をあけてよんだら簡単に小説をかいたから見てくれ、もし雑誌にのせて戴けるとありがたいとかいてあるのだ。僕はおどろいてすぐ小説をよんで見た。野村の妹がかいたにちがいない。綺麗に清書してあった。僕はよんで泣いてしまった。
高 峰   よくかけているかい。
西 島   まだむらはあるけれど、野村の気持はよくわかる。自分のことがかいてあるのだ。妹の大きい画をかいている時に召集されたことや、盲目になって家に帰って来て、癇癪を起して画をやぶくことや、妹達にどなりつけることや。絶望して死にかけることなぞが書いてあった。君のことも少しかいてあった。
高 峰   なんて?
   
    座長はまったく中止にする気持ちはない。
   
 彼   そうですか、分かりました。そうですよね、やるしかないですよね、やりますか。
          開演します。板付きお願いします。開演します。(表に回って)開演いたします。武者小路実篤作『その妹』を開演いたします。
女 客  あのごめんなさい、やっぱり私、今日は帰ります。ご免なさいね、必ず、日を改めて伺いますから……、ね。(立って帰ろうとする)
 彼   いや困ります。もう始まります。どうぞおかけ下さい。始まります。始めます。
女 客  でもねぇ。わたし必ずまた来ますから。
 彼   お願いです。もう始めますから、おかけになってお待ち下さい。
 月   幕が上がりました。芝居は一人の観客の前で始まりました。そして休憩となりました。
 彼   休憩です。十分間の休憩です。
女 客  すばらしい舞台なのですが、私一人のために……心苦しくて。ありがとうございました。
 彼   一寸待って下さい。もう一幕ですから。もう一幕で終わりますから
彼 女  ありがとうございました、素晴らしいお芝居でした。
 彼   あの、お待ち下さい。(女客去る)ああぁ、いっちゃった。
 月   必ずしも素晴らしい舞台に客が入るとは限らない。また状況によっては、客は無くとも幕は上がる。この日も、最後の幕は誰もいない客席を前に続けられました。
          彼が二十歳の時、昭和三十年のことでした。大戦が終わって十年が経っていましたが、食事は戦時中の外食券食堂そのままの名残をとどめる、一膳飯屋で一汁一菜ですませていました。映画なんかで観る大正から昭和初期の頃のような、現代社会とは隔絶した生活が続いていました。暗い時代でした。
 彼   俺は映画会社や芸能界の新人募集に応募することにした。
友人1  そうね、それもいいかもねぇ。どうせぶらぶらしているんだから。
 彼   そうすれば、俺の才能が発見される!
友人1  さぁ、それはどうかしらないけど、なんでもやってみればいいのよ。
 彼   実は今日、試験日なんですよ。書類審査にとおって、筆記試験と実技と面接なんです。
友人1  ……。
 彼   ……。
友人1  何時から、試験はどこでやるの、今日はどこの試験?
 彼   これはゲーム、ゲームですよ。俺は新劇を舞台を目指して上京したんだ。耐えなければ、耐えられる筈なんだ。どこだか得体の知れない、芸能会社の新人募集に応募するために、上京したんじゃないんです。実は何回も繰り返しているんですよ。でも試験は受けずに、引き返してきたんです。俺は新劇の舞台に立ちたいんです。ここで裏方ばかりやってられないんです。
 月   経済的な事情からこの劇場は人手に渡ることになりました。
友人1  さしもの座長も今回ばかりは苦しいみたいね。
 彼   劇場は閉めるみたいだけど、まだ何かもめてるね。
友人1  ちょっとノイローゼ気味ね。ああ見えて、金には弱いみたいね。こちとら金には縁がないから心配ないけどね。
 彼   実はさっき、座長に呼ばれていったんですよ。(シーン変わり)
座 長  ねぇ……、今夜この劇場に泊まってくれないか、誰か居ないと地上権がなくなる。僕は知人の所へ身をかくすから……。頼む、他に頼める人がいないんだよ。頼むよ。な、ねぇいいだろう。一晩だけでいいから。ね、ね、いいね。
 彼   いいですよ。
座 長  助かった。助かるよ。僕はねぇ、もう疲れちゃったんだ。毎日毎日、借金取りが来るんだよ。でもね、今夜、今晩さえ、ここの地上権を守ることができれば、ここの地上権を担保にして借金もなんとかなりそうなんだよ。ここの地上権を担保に、僕の借金をまとめて肩代わりしてくれるという人がいるんでね。じゃぁ、頼んだね、変なのが来るかも知れないけれど、とにかくここに居てくれればいいからね。頼むね。じゃあね。(座長は出て行く)
 彼   (椅子を一脚出して、客席に座る。)
 月   彼の劇団と劇場は痛ましい姿になっていましたが、ここは二年足らずではあっても、彼の東京での最初の舞台で、劇場でした。夜になると、やくざ風の男が二人、布団を持ってやってきました。
ヤクザ  何だかうす暗くて気味が悪いな。芝居小屋って言うのは、芝居が掛かっていないときにくるとこじゃねぇな。何だか出て来そうだぜ。
 彼   (咳払いをする。)
ヤクザ  (ビックリする)ば、ばかやろう! ビックリするじゃねえか。ふざけやがって。ああゝビックリした。
 彼   ……。
ヤクザ  おい、兄ちゃん。お互いここに泊まったことにして、帰ろうや。おれらこんなとこでは、よう寝んは。気味悪いしな。兄ちゃんも家に帰って寝た方がいいだろ。
 彼   ここはぼくの家です。
ヤクザ  何だと、僕の家です、だと。ねぼけたことをいってんじゃねえよ、ここはもうお前さんのモノじゃねえんだよ。とっとと失せやがれってんだ。ったくなんの因果でこんな薄気味悪いところに泊まらなくちゃなんねえんだい。あーあ、しょうがねぇ。おい布団敷け。酒も何もねぇし、寝るしかしょうがねぇ。
 彼   (泣いている。)
 月   彼は泣いた、なんでだか、涙が溢れた。
          彼の手には『絵のない絵本』がありました。
   
    彼はアンデルセン「絵のない絵本」を読み始める
   
 彼   『わたしは絵かきです。ですがわたしは、書きたいという気持ちが強くなればなるほど、手が動かないのです。そのまま絵にかくことができないばかりか、言い表わすこともできないのです。しかし、わたしは絵かきです。わたしの眼が、わたし自身にそう言い聞かせています。それに、わたしのスケッチや絵を見てくれた人たちは、みんながみんな、そう認めてくれているのです。』
          そうだ僕は役者だ、役者なんだ。
          『わたしは貧しく、たいへんせまい路地に住んでいます。といっても、光がさしてこないというようなことはありません。なにしろ、まわりの屋根ごしに、ずっと遠くの方まで見わたすことができるほど、高いところに住んでいるのですから。この町にきた、さいしょのころ、ひどくせまくるしい気がして、さびしい思いをしました。それは、ここで見えるものが、ふる里にあった森やみどりの丘ではなく、ただ灰色の煙突ばかりだったからです。おまけに、ここには、友だちひとりいるわけではありませんし、あいさつの声をかけてくれるような顔なじみもなかったのです。
          ある晩のこと、わたしはたいへん悲しい気持で、窓のそばに立っていました。ふと、わたしは窓をあけて、外をながめました。ああ、そのとき、わたしは、どんなに喜んだかしれません! そこには、わたしのよく知っている顔が、まるい、なつかしい顔が、遠い故郷からの、いちばん親しい友だちの顔がありました。それは月でした。あの故郷の、沼地のそばに生えている、ヤナギの木のあいだから、わたしを見おろしていたのと同じ月だったのです。わたしは、自分の手にキスをして、月にむかって投げてやりました。すると、月はまっすぐわたしの部屋の中にさしこんできて、これから外に出かけるときには、まい晩、ちょっとわたしのところをのぞきこんで、話しをしてあげよう、そしてその話しを絵に描けば、きっと、とてもきれいな絵本が出来ますよと、約束してくれました。そこでわたしは、いく晩もいく晩も、言われたとおりにやってみました。
         
    第十六夜
   
 月   わたしはひとりのプルチネッラを知っています。見物人はこの男の姿を見ると、大声ではやしたてます。この男の動作は一つ一つがこっけいで、小屋じゅうをわあわあと笑わせるのです。けれどもそれは、わざと笑わせようとしているわけではなく、この男の生れつきによるのです。この男は、ほかの男の子たちといっしょに駆けまわっていた小さいころから、もうプルチネッラでした。自然がこの男をそういうふうにつくっていたのです。つまり、背中に一つと胸に一つ、こぶをしょわされていたのです。ところが内面的なもの、精神的なものとなると、じつに豊かな天分を与えられていました。だれひとり、この男のように深い感情と精神のしなやかな弾力性を持っている者はありませんでした。
          劇場がこの男の理想の世界でした。もしもすらりとした美しい姿をしていたなら、この男はどのような舞台に立っても一流の悲劇役者になっていたことでしょう。英雄的なもの、偉大なものが、この男の魂にはみちみちていたのでした。でもそれにもかかわらず、プルチネッラにならなければならなかったのです。苦痛や憂鬱さえもがこの男の深刻な顔にこっけいな生真面目さを加えて、お気に入りの役者に手をたたく大勢の見物人の笑いをひき起すのです。
          美しいコロンビーナはこの男に対してやさしく親切でした。でもアルレッキーノと結婚したいと思っていました。もしもこの『美女と野獣』とが結婚したとすれば、じっさい、あまりにもこっけいなことになったでしょう。。プルチネッラがすっかり不機嫌になっているときでも、コロンビーナだけはこの男をほほえませることのできる、いや大笑いをさせることのできるただひとりの人でした。最初のうちはコロンビーナもこの男といっしょに憂鬱になっていましたが、やがていくらか落ちつき、最後には冗談ばかりを言いました。
コロンビーナ あたし、あんたに何が欠けているか知ってるわ、それは恋愛なのよ。
プルチネッラ (笑い出し)ぼくと恋愛だって!(叫ぶ)そいつはさぞかし愉快だろうな! 見物人は夢中になって騒ぎたてるだろうよ!
コロンビーナ そうよ、恋愛よ! 
          あんたが恋しているのは、このあたしよ!
         
    二人は兄弟のようにふざけあう。
   
 月   そうです、恋愛と関係のないことがわかっているときには、こんなことが言えるものなのです。すると、プルチネッラは笑いころげて飛び上がりました。こうして憂鬱もふっとんでしまいました。けれども、コロンビーナは真実のことを言ったのです。プルチネッラはコロンビーナを愛していました。しかも、芸術における崇高なもの、偉大なものを愛するのと同じように、コロンビーナを高く愛していたのです。
   
    コロンビーナとアルレッキーノの結婚式
   
 月   コロンビーナの婚礼の日には、プルチネッラはいちばん楽しそうな人物でした。しかし夜になると、プルチネッラは泣きました。もしも見物人がそのゆがんだ顔を見たならば、手をたたいて喜んだことでしょう。
          ついこのあいだ、コロンビーナが死にました。

    コロンビーナの死、アルレッキーノ、をはじめ多くの人に看取られて死ぬ。プルチネッラは人々の輪の外にいる。

 月   葬式の日には、アルレッキーノは舞台に出なくてもいいことになりました。この男は悲しみに打ち沈んだ男やもめなんですから。そこで監督は、美しいコロンビーナと陽気なアルレッキーノが出なくても見物人を失望させないように、何かほんとうに愉快なものを上演しなければなりませんでした。そのため、プルチネッラはいつもの二倍もおかしく振舞わなければならなかったのです。プルチネッラは心に絶望を感じながらも、踊ったり跳ねたりしました。そして拍手喝采を受けました。
          『すばらしいぞ! じつにすばらしい!』
          プルチネッラはふたたび呼び出されました。ああ、プルチネッラは、ほんとうに測りしれない価値のある男でした!
          ゆうべ芝居が終ってから、この小さな化物はただひとり町を出て、さびしい墓地のほうへさまよって行きました。コロンビーナの墓の上の花輪は、もうすっかりしおれていました。プルチネッラはそこに腰をおろしました。
         
    そのありさまは絵になるものでした。手はあごの下にあて、眼はわたしのほうに向けていました。まるで一つの記念像のようでした。墓の上のプルチネッラ、それはまことに珍しいこっけいなものです。もしも見物人がこのお気に入りの役者を見たならば、きっとさわぎたてたことでしょう。
   
 月   すばらしいぞプルチネッラ、すばらしいぞ、じつにすばらしい!

    第二十六夜
 月   きのうの夜明けのことでした。大きな町の煙突は、まだどれも煙をはいていませんでした。それでもわたしが見ていたのは、その煙突だったのです。と、とつぜん、その煙突の一つから、小さい頭が出てきました。つづいて上半身が現われて、両腕を煙突のふちにかけました。
小 僧  ばんざい!
 月   それは小さい煙突そうじの小僧でした。生れてはじめて煙突の中をてっぺんまでのぼってきて、頭を外につき出したのでした。
小 僧  ばんざい!
 月   そうです、そのとおりです。たしかにこれは、狭苦しい管や小さい暖炉の中を這いずりまわるのとは、いささかわけが違っていました。そよ風がすがすがしく吹いていました。町じゅうが緑の森のあたりまで見わたせました。ちょうど太陽がのぼりました。まるく大きく、太陽は小僧の顔を照らしました。その顔はじつにみごとに煤でまっ黒になっていましたが、嬉しさにかがやいていました。
小 僧  さあ、おいらは、町じゅうのものに見えるんだ! お月さまにだって、おいらが見えるんだ。お日さまにだってよ! ばんざい!
 月   こう言いながら、小僧はほうきを打振りました。
                                                        ―幕―
                                                             
                                                             
    休 憩(十五分)
    第二幕

 月   私は再び東の国に行ってみました。
          彼はふる里に帰っていました。大晦日まで家業の炭屋を手伝っていました。元旦は疲れて、奥の座敷でごろごろしていました。すると表の方で声が聞こえてきました。「大きゆうなったら東京へ行って役者になりんしゃい」と行ってくれた懐かしい、兄ちゃんの声でした。
兄ちゃん 私も念願かなって、芸で身ば立てることが出来ました。つきましてはその披露をば、明日一時より町内のはすれの角の空き地で行いますので、よろしかったら是非お運び下さい。
 彼   母ちゃん。今の兄ちゃんだよね、裏に住んでいた歌の上手い。
 母   そうたい、あん人も芸人になったとやね。
 月   彼は翌日、家の裏口から出て裏通りを抜け、一旦町内を出ました。そうして家とは逆の方向から、その空き地に近づきました。観客は子どもたちが五、六人いました。
兄ちゃん 御通行中の皆様。新年あけましておめでとうございます。 坊ちゃん嬢ちゃん、お客様、どうぞ、今年もよいお年でございますように。 さて、ここに陳列されましたるは幸せを呼ぶ鶴亀でございます。 鶴は千年、亀は万年。あなた百まで、わしゃ九十九まで。共にシラミのたかるまでと申しまして・・・・・。
 月   兄ちゃんは薬売りになっていました。あの寅さんのような香具師となっていました。
 彼   (モノローグ)これだ、これを俺もやるんだ。自分の信じる道を進しかないんだ。大劇場に立つことや、有名になって人にちやほやされるようになるんじゃない。兄ちゃんの様にやりたいことをやり抜くんだ。兄ちゃんは夢を果たしたんだ。だから気高さがあるんだ。幸せなんだ。
   
    彼女と向き合っている
   
 彼   もう一度東京へ戻って、新劇俳優の道を目指したい。今度は一緒に来てくれないか? 一緒に来て欲しい。
彼 女  まだ父が亡くなって一年だから、出来ればもう二、三年たってからのほうが……、あなたもそれでいいって言ってくれてたじゃない。
 彼   東京に出てみて分かったんだ。一人じゃ駄目だって。お願いだ、一緒に来てくれ。
彼 女  急すぎるは。母にも兄たちにも言っていないし。父にも何も言っていなかったんですもの。
 彼   じゃ、結婚しないって言うこと?
彼 女  そうじゃないわ。でも私はそんなにすぐには家を出られない。母が一人っきりになるもの。母にとって、私は残ったたったひとりの子どもなのよ。兄たちにはそれぞれの家族が居るし。二人で静かに暮らしましょうって、母は言っているの。
 彼   お母さんも、連れて行けばいいじゃないか。
彼 女  そうは行かないわ。二、三年たってからなら……。
 彼   それじゃ駄目だ。二、三年後ってことなら、それは結婚しないと言うことと同じだ。
 月   彼女はその夜、母親に話をすることにしました。
彼女の母 東京に卒業したらすぐ? お父さんが亡くなって、まだ一年もたたないのに、そうしたら、わたしはどうするの?(涙声)
 月   彼女は言わなければよかったと思いましたが、それでも続けて言いました。
彼 女  彼はお母さんも一緒にって言うの。どっちにしろ、私が就職したりして、働くのだったら、ここでも東京でも同じよね。でもね、わたしは、駄目だ、って言ったのよ。それなのに彼はどうしても一緒に来て欲しいって……。
 月   その夜の母と娘は、お互いの視線を避けて過ごしました。次の朝、母は言いました。
彼女の母 あなたは彼が好きなのね? だったら、いいよ。結婚なさい。俳優って仕事、私にはよくわからないけど、面白いじゃないの、立派な俳優さんにしてあげなさい。わたしも手伝うよ。
          同級生ってのが、よいじゃない。わたしはね父さんと九歳も年が違ってて、何かと言うと子ども扱いされて、とても口惜しかった。お友達同士だと、きっと楽しいよ。
 月   次の日に、彼は彼女の留守にこの母親を訪ねました。
 彼   お嬢さんと結婚させて下さい。東京に出て、劇団に入り、勉強して、必ずいい俳優になります。そしてお嬢さんを幸せにします。わたしにはお嬢さんの力が必要なんです。二人で力を合わせて、共に成長したいんです。二人でなければ幸せになれないんです。
彼女の母 あなたはあの子が好きなのね?
 彼   はい、好きです。
彼女の母 だったら、結婚なさい。
 彼   はい……赦して下さるんですね、どうもありがとうございます。彼女と一緒に東京に行けるんですね。東京に連れて行ってかまわないんですね。ありがとうございます。必ず良い俳優になって、お嬢さんを幸せにします。ありがとうございます。
 月   彼女は六人兄弟の末っ子で、上は全員男でした。兄たちは激怒しましたが、そのことで彼女の決心は逆に強くなりました。そして、母親の勇気と愛情も手伝って、兄たちを説き伏せ、二人は慌ただしく結婚して、東京に出発しました。
          彼は彼女の母親との約束通り、大変な難関であった人気劇団に入り、本格的に俳優活動を始めることになりました。
          そして、二十五年後二人はJIJIとBABAとなりました。始めてJIJIとなった彼は白い大きな家の大きな一枚ガラスの中で、生まれたばかりの赤ん坊をモデルに絵を描いていました。
役 者  ヒロユキもこの子と同じように髪の毛が立っていたんだよ。
 月   彼は役者として名を成していましたが、絵本も書いていました。そして、この絵は、絵本の表紙になりました。そして、この絵本に書かれているお話は、中学校一年生の教科書にも掲載されるようになりました。
          それは『おとなになれなかった弟たちに……』という題名の絵本でした。
   
    役者が朗読を始める。
   
役 者  『おとなになれなかった弟たちに……』
          母に――

(全文を朗読しますが、この内容は偕成社の絵本を買ってお読み下さい。)
          
          あとがき  
          戦争ではたくさんの人たちがしにます。そして老人、女、子どもと弱い人間から飢えて死にます。
          私はそのことをわすれません。
          でも、もっとわすれてはならないことがあります。
          私の弟が死んだ太平洋戦争は、日本がはじめた戦争なのです。そして朝鮮、韓国、中国、東南アジアの国々、南方諸島の人たちをどんなに苦しめ悲しませたことでしょう。それは私たちが苦しみ悲しんだ以上のものです。
          そのことを私たちはわすれてはならないと思います。
          そのことをわすれて、私たちの平和は守られないでしょう。
   
    一九八三年夏
    米倉斉加年
   
作 者  そして、米倉斉加年は『おとなになれなかった弟たちに……』の朗読に続けて、敗戦の反省と、二度と戦争を起こさないという願いを込めて作られた、憲法を読んでいました。
          前文と九条を読みます。

    公布 昭和21(1946)年11月3日/施行 昭和22(1947)年 5月3日(補則)

【前文】  日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。
          日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは,平和を維持し,専制と隷従,圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において,名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
          われらは,いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従ふことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
          日本国民は,国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
   
第2章 戦争の放棄
第9条【戦争の放棄,軍備及び交戦権の否認】
          (1)日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
         
          (2)前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。