父帰る 勉強会2

2015/11/12
今日の稽古は宮沢賢治の「ドングリと山猫」
米倉斉加年が春日市の図書館で朗読した作品である。同時に朗読した序文にこうある。
注文の多い料理店・序
 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
  またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
  わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
  これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
  ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
  ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
  ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
  けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
     大正十二年十二月二十日
宮澤賢治

宮沢賢治は「氷砂糖をほしいくらいもたないでも」と書き出している。この「欲しいくらい持たない」がわからなかった。
欲しいけど「持とうとしない」のか、欲しくてたまらないけど「持てない」のかがわからなかった。「持たない」は「持てない」ではないので、「持とうとしない」と言う事ではあろうが、この宮沢賢治の置かれている状況は、目の前にある物を、「持とうとしない」という状況とは考えにくい。そこで「持たない」がわからなくなってしまった。
そもそも「欲しいくらい」という言い回し、これが面白い。「欲しいくらい」とはどのくらいなのだろう。欲求は人により違うだろう、特に対照が氷砂糖となればなおのことである。しかしこれも、視点を変えて、様々な読み手、様々な好みの読み手を対象と考えて、どの読み手に対してもその満足する「くらい」と考えることは出来ないだろうか。「欲しい」強さはそれぞれの嗜好によって異なるし、その対照によっても異なるであろうが、氷砂糖は誰もが「欲しい」典型的な嗜好品と考えられるのではないだろうか。
どうやらこの「氷砂糖をほしいくらいもたないでも」は「氷砂糖は欲しくて欲しくてたまらないが、氷砂糖なんか無くても」と言う事なのではないだろうか。