一座

一座と云えば、宇野重吉一座のことを言う。


宇野重吉一座の立ち上げは、麥秋社公演から始まる。


第一回麥秋社公演は『古風なコメディ』であった。


そもそも麥秋社とは宇野先生が書いた『「桜の園」について』(宇野重吉演出ノート)を出版するために作られた。それと、自身と奥様の世話をしていたお嬢様に残すために。


まさかね図案舎は紀伊國屋書店の好意で、店を出す時に作られたのであるが、竹久夢二の港屋の様なものであった。それと、青芸から続いていた、米倉を支えてくれていた、仲間の爲であった。


宇野重吉一座は民藝公演と言っても良いものであったが、宇野先生の中では民藝公演では無く、あくまでも宇野重吉一座であった。しかしそれをそのように受け取った人は、観客にも出演者にも多くはなかった。多くの出演者は民藝公演と同じように配役され、同じようにギャラを貰っていたのである。


まさかね一座は民藝以外の参加者はなく、民藝公演と言って良いものであったが、民藝からギャラを貰っていたとしても、民藝公演ではなく、民藝の外の公演とされた。


ここに、宇野重吉一座とまさかね一座の大きな違いがあるが、私はそれを大きな相違点とは思わない。


宇野重吉一座は民藝公演としても良いが、まさかね一座の公演は民藝公演とはならない。と言う事なのであるが、その違いは民藝という劇団の捉え方の相違である。演劇はあくまでも自立した個々の集まりでなくてはならないが、どうしても寄り添い、もたれ合う実社会的な面もある。その為、日本人と外国人という独特な考え方と同じように、劇団と外、劇団があるから芝居が出来ると考えてしまう。しかし実はそうではない、やりたい芝居があって、一緒にやりたい仲間がいるから劇団が生まれ、芝居が出来るのである。
その点で言えば、宇野重吉一座とまさかね一座は同じなのである。宇野重吉一座は「ムキになってやれる奴だけでやる」まさかね一座は「やりたい奴だけでやる」でやったのである。