マサカネ演劇研究所

収斂

 収斂する
私が米倉斉加年の影に隠れている、逃げていると人は言う。そんなことは思ってもいなかったが、なるほどそういわれれば、その事を批判していたのかと思われることが、これまでもあった。多くの人がそうのように見ているとしても仕方が無い。宇野先生の下で米倉斉加年が芝居をやっていたときも、そう言われていたのである。
演劇の場で利己的な名声を得ようとする視点から見ればそう見えるであろう。しかし、真の演劇を極める、良い舞台を作ることで、自らを高めようとするならば、自分より優れた者と組み、そこで自分を引き上げていこうとする行為は、間違っていないと思われるし、非難にはあたらないと思う。それどころか、集団の創造としての側面から見ればより豊かな集団でこそ優れた演劇活動が出来る、結果自らを高めるのである。
真に豊かな集団とは優れた人材がそろっている集団を指すのではなく、どのような人でも引き入れることが出来る集団を指す。弱者を救済できてこその強者であり、弱者を踏み台にする強者の集団は豊かな集団とは言えない。宇野先生の作る芝居は弱者を救済する芝居であった。
個人の技量を磨くために稽古をするのではない。演技を磨くことを稽古で求めるのではなく、劇的世界を高める為に稽古をするのである。
劇的世界を高める為には、らせん状に収斂する必要がある。それぞれが、それぞれの方向と力を発揮するが、その方向と力はらせん状に働き、渦となって収斂する。皆が同じ方向を向いて、同じ方向に力を入れても、劇的世界は動かない。
そのらせん状をデザインし、示すことができる者がリーダーとなる。そして、その渦は劇的空間すべてを、巻き込み、収斂させる。客席をも巻き込み一つの空間として演出される。その演出された空間を経験して始めて、真の役割が理解され、その理解が次に繋がるのだと思う。
そういう風に考えると、個人の技量を磨くためにも、参加することが第一であり、それぞれがそれぞれに役割を知り、その役割を成すことがすべてと言う気がしてくる。