テキストレジ

戯曲を台本にする作業をテキストレジ(本直し)、略してテキレジと言い、稽古途中で台本を修正することもテキレジという。
テキレジこそ演出の妙味ではあるが、作家にしてみれば最も気になり神経質になることである。そこで演出は作家以上にその作品を理解し、評価し、テキレジする際には作家を納得させねばならないのであるが……、作家にしてみれば、書いた本人が最も作品を理解し評価しているわけで、そうして完成させた作品を、修正されて「ハイそうですか」とはいかないわけで……、そういった意味に於いても妙味となる。木下順二は稽古場には出ず、作家の意図なども一切語らなかった。作家が筆を置き、作品を演出に渡した時点で、(著作権以外は)作品は一個の独立した、ある種の人格を持った存在となり、作家の手を離れる。作家にしてみれば、愛する娘を嫁にやるのと同じである。やるかやらぬかには口を出せるが、やると決めたらば、もう口出しは無用なのである。
チェーホフは、配役から解釈まで、細かく口だしをしているが、ダンチェンコやスタニスラフスキー、妻クニッペルとの信頼関係に最後は委ねている。
リアリズム演劇に於いて優れた作品は、誰のものでもない、そこに生きる大衆のものである。大衆の力となる作品が優れた作品である。
米倉斉加年演出・木下順二作『オットーと呼ばれる日本人』では、初演の宇野重吉・滝沢修コンビの印象が強く、難しい公演となった。初演当時は単なる名作では無く、エンターテイメントとしての評価も高かった、それは当時の社会情勢と、演劇事情によるのだが……。それに対して、米倉演出の時は、名作を見事に上演したという評価ではあったが……。
米倉演出では初演から時は経ていたが、現代性を入れたりしてエンターテイメントとして盛り上げることはなかった。ただ作品を理解し、テキレジをせずとも現代に通じると考え、とにかく一字一句おろそかしないようにした。テキレジの仕方によってはエンターテイメント性が加わったかも知れぬ、しかし、それでは作品の持っているものを消してしまうかも知れない。
作品は生きている。
時代を超えて生きる力を持っている作品がある。木下順二作『オットーと呼ばれる日本人』はそういう力を持っていると米倉演出は感じたのである。
分からないと言って直したり、この方が面白いからと変更することで、作品の持っているものを消してしまっては、その時は喜ばれても、次の時代には届かなくなってしまうのである。