大橋喜一本人が選んだ、最良の論文です。


――敗戦五〇周年を迎え――
戦後五〇年をよろめきながら
大橋喜一
  かつて萩坂さん編集長の頃、「全リ演では何故創作劇が生まれないのか?」という題の文を書こうと約束した。はなはだ穏やかならざるタイトルで、わたし自身が傷つくのを覚悟しての話たった。(八三号「ソ連邦の解体と社会主義リアリズム」の末尾。)それが頭にこびりついて離れなかった。
  このたび早川君から原稿を依頼された時でも、それが「特集・敗戦五〇周年を迎え」のしめくくりのもの、と言われておりながら、わたしは前の課題とごっちゃにして考えていた。筆をとったものの、何回書き直しても前にすすまなかった。考えてみれば、前の問題はドラマトルギーのことであり、こんどの問題は戦後五〇年の、戦争責任についての問題であるのだ。まとまらないのは当然だと思い至って、ドラマトルギーの問題を切り捨てて考えはしめた。じつを言えばそれは深い関係にあるのだが。
 
 
わたしの戦争体験

  わたしは一九一七年生まれ、満二〇才の時に日中戦争がはじまり、直ちに召集令状を受け、初年兵・二年兵の時期は中国の戦場で過ごした。召集解除後間もなく、対米英との開戦。再び召集を受け、こんどはソ満国境でソ連軍と対峙し、三年余を国境守備。内地への米軍上陸近しとて、敗戦間際になって、満州から九十九里浜に移動した。二十才代のほとんどが軍隊生活、戦後は丸はだか、無一物からの出発だった。戦争体験はわたしの心の底まで染みついて、おそらく死ぬまで取れないであろう。
  わたしは職場演劇から劇作家に転じた。劇作家たるべき決断をした時は三七才。久保栄ならば「火山灰地」を完成した年令より一年も後。だから、五〇才を過ぎても素人意識に悩まされつづけた。わたしは自分の創作目標を、戦争と労働者の生活との二つにしぼって発足した。処女作(一九四七年)は労働者の生活を描いたもの。そして、職場にいる時でもいちばん創作意欲を注いだものは戦争体験であった。その中国での戦争体験を一八〇枚の戯曲に書いたのは一九五〇年の八月、まだ職場にいる頃。大きな戯曲だから職場では上演できず、無名作家だから活字化もならず、職場の仲間が協力してガリ切りしてくれ、小冊子にまとめ、百部くらいを心あたりに配布したが何の反響もなかった。それがある偶然から三好十郎氏に読まれて、かなりに評価され、その縁で「テアトロ」誌にのった。わたしの戯曲ではじめて活字になったのは、戦争ものであった。
  ある左翼の評論家から、血みどろな戯曲で芸術としての節制がない、否定的に評されたことを覚えている。どこからも上演の話すらなかった。その戯曲の題は「屍と群盲」。たしかに客に嫌われる題名だ。「屍」とは中国の民衆や戦死した日本兵、「群盲」とは日本軍の兵隊たちを意味する。戯曲の題名が芝居の成否を左右することを知らなかった頃のはなし。でも、わたしはこの題名が好きだ。戦場とは、屍と群盲の妄動するところだから。仏教に埋蔵経という言葉があるが、わたしのこの戯曲は、埋蔵戯曲というべきだろう。
  その後約十年余、わたしは「松川事件」と「戦争体験」の二つを戯曲に書きつづけた。習作、また習作、ほとんど世に出ることもなく、すべて埋蔵戯曲。でも、半分出かかった戯曲がある。それはわたしの中国と満州での、二つの体験をまぜ合わせた夢の形式の戯曲で、時間・空間が意織の世界で自由に変わる展開法、ムソルグスキーの「禿山の一夜」にちなんで題を「禿山の夜」とつけた。初稿は一九五七年秋。わかりにくいへんな戯曲なのにもかかわらず、上演運があって、上演順に劇団名を書くと、「生活舞台」「関西芸術座」「泉座」「東演」。「東演」での上演は一九七四年。一七年間にわたり、わたしは七回改稿した、結果は、作者にはわからないものだが、すべて好評ではなかったと思っている。「東演」の上演のあと、東京労演の阿部文勇君から、「いい加減に戦争ものは諦めたら」と評された。残念だがそれ以後わたしは、「戦争を書いたら失敗する」と思いこんでいる。そして、時々思うのだが、「なぜ、戯曲なんて不自由なジャソルを選んだのだ。小説を書こうと考えなかったのだ。」
  以後、わたしは戦争を書くことを断念した。そのエネルギーが、あるいは「原爆戯曲」に向かったのかも知れない。
 
 
民芸に入団して

  わたしが民芸に入団したのは一九六一年。それまでの劇作の実績から劇団員としてむかえられた。(一九五六年に新劇戯曲賞を受けていた)だが、三年間は戯曲を書いても上演されず、自信はゆらぎ、苦しい時期をむかえる。三年経って民芸入団後の第一作が上演されたことになる。松川事件に関連した占領下の引揚者の悲劇で、重苦しい作品だが公演は成功したもよう。
  その後約十年間余り、わたしは劇団民芸にあって順調に作品を発表した。その作品は二つのジャンルに分けられる。ひとつは労働者の生活を描いたもの、他のひとつは原爆被災についてのもので、それらは当時の労演運動を受皿にして、連続的に全国巡演がなされた。学歴もない労働者上がりのしかも中年から劇作の世界に転じたわたしは、たしかに上演運にめぐまれた十数年たった。だが、わたしは考えた、「戯曲が成功するとはどういうことなのか? 大劇団でイタにのったからの成功であって、これが、もし、民芸の上演ではなかったら? ……だれが、学歴もない労働者あがりの、お前の戯曲に注目するか?」
  演劇としての上演の成功なくして、戯曲の――したがって劇作家の社会的な成功はない。わたしはそう思う。イプセソでもチェホフでもその途をたどってのことではないのか。
  このことは言いかえると、戯曲を生かすも殺すもその鍵は劇団がもつ。ということにもなる。そう信じている劇団指導者もいる。そこから、劇作家と劇団との微妙な関係も生まれてくる。これは「劇作家とはなにか?」を考える大事な問題だが、この稿の課題から・外れるし、かなり複雑なことにもなるので、これ以上はふれない。
 
 
戦後五〇年とリアリズム演劇
 
  わたしは二十代のほとんどを戦場でおくり、敗戦後は、労働運動のなかから劇作家になった。それらの媒介をしたのは、戦後の新劇運動と労働者の職場演劇運動である。敗戦直後、新劇運動の主要な人々は、労働者演劇運動を育成し、未来の観客を労働者層に求めた。それらの芸術意織の中心に社会主義リアリズムがおかれていたと思われる。
  ところで、はじめはリベラルに見えた占領軍は、中国革命の成功を見るや、日本を反共防衛の基地にしようと、共産党の主導性の強い急進的労働運動に弾圧を加え、謀略的な怪事件の続発のなかにレッド・パージを行った。労働者の演劇運動は共産主義的文化運動とみられ、弾圧の対象とされ、企業職場から演劇サークルは追い出される。戦後五〇年のうちの前半の二〇年は、演劇運動の企業職場から追い出しの歴史である。(それはまた、全国的に拡がった労演運動への、企業からの抑圧の歴史にも重なる。)
  朝鮮戦争・ベトナム戦争と、大戦後の二つの大戦争は、米・ソの超大国の代理戦争ともいうべき性格をもち、それは日本に軍事基地がなくては考えられない戦争であって、それらの軍需生産を経済的基盤として、日本経済は立ち直る。戦後日本の五〇年は、米・ソの核戦略の対立、イデオロギイの対立、が、資本主義的経営と、社会主義的労働運動との対立になる。そしてそれは企業労働の現場では、組合運動の分裂と対立、労働者同士が血を流すような抗争のなかに進行していく。この五〇年は、米・ソ世界戦略の冷戦を背景にした、労働者の分裂と抗争の歴史であり、働く人びとの敗北意識や自己主張の沈静化と、体制への順応の上に経済的繁栄という欺瞞の花が咲く。わたしにとって経済的な繁栄とは、働く人々の自己意識の抑圧から抹殺の上に咲いた大きな仇花に見えるのだ。七〇年代以後は、その上にさらに生産や流通の技術革新が加わり、これまでの労働過程はおろか、(人は何のために働き、何を作っているのか)――という生産意識まで変えてゆく。
  わたしは一九六〇年代までの労働現場はなんとか描けるつもりがあるが、七〇年代以後になると、もはや外面的な現象さえ理解しにくい。
  こうした、わたしにとって怪奇な現実のひとつの区切りとして、――出現したものが、ソ連邦の解体と冷戦の終結という事態であった。社会主義思想とそのための民衆の闘いは、柔軟性のある資本主義体制をある程度変化させたものの、自らの上の意識体制は強直したままで現実に屈服し、中心のソ連体制の崩壊という現実をむかえて、まずは暗中模索、立往生の形でいる。わたしはそのように感じている。リアリズム芸術、とくに文学とか演劇とかの、現実反映の可能性の明らかなジャンルは、なにを描いたとしても、その背後に、このような歴史的現実の姿を映し出すもの、映し出そうとする芸術思想をいうのであって、表現形式が写実であるかないかは二次的なことだと思う。
  戦後五〇年。二〇世紀前半は人類史に例をみない大殺戮の残酷な歴史であって、日本はそのなかで戦争の一方の主役を演じ、その大敗北の現実から出発した。その日本は、世界で唯一の意図的に原子爆弾を落とされた被爆国であり、アメリカ軍の極東での最大の軍事基地がおかれ、国家自体としては五〇年間平和を保ちつづけ、国民は兎小屋に住むと言われながらも経済繁栄では世界一にのしあがる。そのような国である。そしてそれは、実に奇妙な平和を享受した五〇年でもあろう。国土の要所は他国の軍事基地に五〇年間も、そしてこれからも抑えつけられながら、経済活動のみは強大になる。自衛隊とよぶ軍事組織はありながら、国民に対しては実に肩身を狭くしており、――そのように軍人も国民自体も意識している。宗教に至っては、日常的意織にあってはまるで一億総無神論といってもいい現象だ。国民の日常慣習のなかではあるものの、仏教も神道もキリスト教もそれぞれに健在であり、ごく最近では、宗教史に例をみない凶悪な犯罪集団としか思えないカルト教団さえ生む。仏教とキリスト教と、日本には馴染の浅いヒンドゥー教の神々までもまぜ合わせ、自作自演の無差別テロで世界滅亡を説き、それが若者をひきつける。
  これらはすべて歴史のリアリズムである。リアリズム演劇とは、こうして歴史的現実を人間個々の行動の背景に反映する芸術であろう。演劇人の、とくにリアリズムを方法意識として持つ演劇芸術は、敗戦五〇年を迎えて、それらをどのように反映しており、あるいは反映を放棄していたかを、考察の原点において考えなければならないと思う。
 
 
二つの衝撃的な教訓

  天皇制下の軍国主義にぎりぎりで抵抗した歴史をもつ新劇人を、敗戦当時のわたしたちは尊敬していた。(例え屈服止む得ぬ時期があったとしても。)敗戦後には一時、奇妙な明るさがあり、労働者はバラ色の将来を感じた。その後共産党の五〇年問題なる政治路線の混乱が、いくつかの新劇団の内部にもちこまれ、混乱の時期がつづいた。また、芸術作品の評価にあっても作品のもたらす政治的効果(社会主義的思想性の)を表現の芸術性よりも優位におくべき云々の論争がつづいて、わたしのような学識のない労働者には、リアリズム芸術など思いもよらないと弱気になったこともあった。そうこうするなかでわたしは衝撃的な二つのことを経験した。
  ひとつは、わたしが書いた「松川事件」なる戯曲(一九五九年「テアトロ」について、ある時、久保栄が「君がこの事件を、占領軍を背後にもつ体制側の陰謀という視点で描いたことは正しいと思うが、そのような陰謀がたやすく成功するような味方(労働組合)の闘い方の誤りを、全く書こうとしなかったことは、芸術的には公式主義だ」と評されたことだ。そして、「だれもこの事件について筆をとろうとしない時、君がこれを書いたことは、たいへん良いことだが」と激励してくれた。久保栄の言葉には、当時の労働運動に対する日本共産党の指導への、強い批判がこめられたものと言えよう。わたしはその時「そんなこと、書けますか?」と反問すると、「だから、リアリズムとは、作家にとっては生命がけなものだ。」と答えられた。この久保さんの言葉は、その後のわたしにとって最大の重みとなった。数年後久保栄は自殺する。強度の神経症にあったことは事実だが、自殺の真相などわたしには知るべくもない。
  もうひとつは、「炎の人」を書いた直後の三好十郎との対談で、三好さんから「君が作家として誠実であろうとすれば、共産主義者としては堕落し、共産主義者として誠実であろうとすれば、芸術家として堕落する。」と言われたことだ。わたしはその言葉に反発しながらも劇作家としての氏の重味、ことに、「炎の人」の作者の言葉として圧倒された。久保、三好、両氏の言葉には、共通して政治と芸術術についての苦渋に満ちた体験がある。そして、とくに印象に残ったことは、久保、三好両氏とも、劇作家としての知名度に比べて、その生活がじつに貧しく思えたことだ。
  (そのとちらの体験も、わたしがまだ労働者でいた頃のことである。)そして、その二人ともが、当時の新劇界では事実上孤立していたことも事実らしい。(劇作家とは、貧しく、孤立せざるを得ないものなのか)わたしの鈍い感覚にもそれは感じられた。
 
 
七〇年代の戦後演劇運動の危機
 
  七〇年代になると、経済の高度成長政策がとられ、経済的に世の中が一変してゆく。新劇界にも、これまで多少にかかわらず築地小劇場の流れにあった新劇とは異なる、別種の演劇運動があらわれた。
  いわゆるアングラ小劇場運動である。多分同世代なのだろう、マスコミジャーナリズムはこれを高く評価し、既成新劇に対する攻撃材料に使った。
  アングラ小劇場は、思想的には学生運動を背景にした全共闘系と思われた。築地的リアリズムと真向から対立する立場で、アルトーや、ジャリや、イオネスコなどの作風の影響などをわたしは感じた。しかし、わたしはその一部ではあるが強く引かれるものもあった。佐藤信の諸作品などは衝撃的でさえあった。しかし、全般的にみてアングラ劇は観念的で、わたしはそれらの多くを批判的にみていた。
  だが別の観方もある。戦前からの築地の流れにある新劇は、戦時中の屈服についてなんら自己検討することもなく漠然と復活した。だから、戦前の運動の終焉に過ぎない。だから、真の戦後演劇運動のはじまりこそは、このアングラ小劇場である。――という説である。たしか宮本研のことばとしてわたしは記憶している。わたしはこのことばに一部共鳴しながらも、同時に反発も感じていた。それは多分に、わたしの労働者上がりという体質によるものだと思う。
  七〇年代から八〇年代にかけて、このアングラ演劇発生のころを、戦後新劇の最大の危機だと語られた千田是也氏の言葉に、わたしはかなり同感している。それは敗戦直後に復活した新劇運動が、①日・米独占資本によるたゆみない文化的攻勢と、②革新陣営内の混乱が生んだ分裂や解体、③高度成長に便乗せんとする新劇職業化のあせりと商業主義化。アンサンブルを軽視し、スター、名作路線への傾斜。そしてアングラ小劇場は、海外の前衛劇の影響はあるが、既成新劇の運動としてのこのようなみっともなさへの反発として生まれ、あたらしもの好きのジャーナリズムに実力以上の評価をされたもの。と、たしか、氏の演劇対談集のあとがきで述ベられていたと記憶している。
  「既成新劇の運動としてのみっともなさ」という、千田指摘の危機感にわたしは同感するだけでなく、もはや「新劇運動」なるものの消滅のはじまりではないかとさえ考えている。
 
 
新劇運動のなかの劇作家
 
  新劇はたしかに意識的な運動として生まれ、今日につづいている。ならば、劇作家は当然新劇運動のイデオローグであるはず、わたしはそのように単純に思って、労働者演劇から職業的な劇作家へと転じた。
  だが、意外に思った。運動としての新劇の世界では、その活動の主体的な動きをしている人々は、俳優や演出家のなかの積極的な人々か、その人々を擁する劇団組織であって、劇作家はほとんどいなかった――と、わたしは感じている。
  労働者演劇や地方劇団の多くは、劇作家が活動の中心にいた。(現在でもそうかどうかは、わたしはしらない。)職業的劇団にあっては、劇作家はふつうは劇団にも所属していないようで、それぞれに孤立していた。(わたしにはそう見えた。そして自分はむしろ例外なのだと感じた。)
  職業的に戯曲を書いて生きてゆくことは、その多くは、自らの意図で戯曲を書きあげることではなくて、劇団の注文を受けて、その注文に応じて戯曲を書くことである。大部分の職業的作家はそうしなければ生きてゆけない世界であることを、わたしは劇作家になってはじめて知った。(わたしと民芸の関係は少しちがう。何を書くのも作者の自由、上演するもしないも劇団の自由ということ。だから書いても上演されない戯曲もある。もとより、劇団の企画によって書いた戯曲も一~二はある。)
  アングラ小劇場の多くは劇作家主導のようである。新劇団は歴史が古くなり、組織が大きくなるにしたがって、俳優・演出家が主導的になり、さらに制作部の意見も経済面から重くなってくる。だから劇作家は、俳優や演出家との交際のなかで、劇団の意図する作品の執筆依頼を受けるか、もし、自分が自由に書いた戯曲があるならば、俳優や演出家を通して劇団へ売り込みをするより仕方がなくなる。
  持ち込まれた戯曲の多くが、どのように扱われるかは、その劇作家の知名度によってさまざまである。そして、原稿用紙に書かれたままの戯曲から、その作者のテーマ的意図までを見透して舞台的形象性を想像できる――新作戯曲を読みとること、それが出来る人はそれ程多くはいない。むしろ、たいへん少ない、それが現実である。演出家はともかく、知名度の高い俳優であっても、文字としての戯曲から舞台が読みとれない人はかなりいる。
  だから、劇団が大きくなり知名度が高くなると、劇作家と劇団の関係は、芸術的目的を同じくする創造体というよりは、親会社に対する下請けに似た関係、多分に営業的な劇団の方針に沿うような台本づくりになる、こうした立場にある劇作家に、どうして運動のイデオローグとしての意欲が湧いてくるであろうか。そして、イデオローグを欠いた運動で、つまり有効な戯曲の創作者を欠いた運動で、どうして芸術運動としての、ましてリアリズム芸術としての豊かなる現実の反映を描くことができるだろうか。わたしはそう考える。
 
 
混沌のなかに
 
  この原稿でわたしの筆はよろめきつづけ、読者に申しわけないと思う。演劇芸術とは生きた人間の葛藤を描き、その背後に時代の歴史を具体的に表現させるものであろう。ことにリアリズム芸術とはそういうもののはず。これらの仕事において、この戦後五〇年、新劇人の仕事の成果は、果して充分に反映しているであろうか? かの戦争の実態・戦争責任・占領下の生活・軍事基地と経済繁栄・六〇年安保・鳴りをひそめた労働運動・教育の荒廃・再ひ花咲く皇室繁栄・原水禁運動…… 演劇とはおもしろく楽しいもの、それは演劇の最低必要条件である。では、これらのリアリズム課題は演劇の芸術的条件たり得ないのか? そうではない。そうであってはならない。
  人類史上未曽有の虐殺の歴史、そして地球の破滅寸前の危機までむかえた二〇世紀はまさに終わろうとしている。その世紀末にわれわれはオウム真理教事件をむかえた。戦争を除いては世界史にも例のないデタラメ犯罪事件だ。二〇世紀の終わりを象徴するかのような。――だが、この事件は来るべき二一世紀の予兆ではあるまいか? とするなら来るべき世紀とは?
  芝居のたのしみ、ことにリアリズム演劇はその苛烈な世紀に、いかに存在するのか? わたしの頭は混沌としている。
            ――一九九五年九月――
    大橋喜一氏のプロフィール
    1917年、東京深川生まれ。小僧、職工、飾職などの底辺労働を転々。探偵小説狂。戦争はじまれば兵隊、兵隊歴6年。敗戦後はハダカ無一物、労働組合で職場演劇、レッドパージで新劇界に。悲しくも学歴もたぬ劇作家。だからコムプレックスの塊り。ゼニ勘定ができない。女房に逃げられないのが不思議。
    全日本リアリズム演劇会議機関誌
    演劇会議 89
    1995年11月