ご挨拶

米倉斉加年は2014年8月26日、腹部大動脈瘤破裂による出血で死亡しました。

1934年(昭和9年)福岡に生まれ、役者となる爲に、大学を中退し、20歳の時(1954)に東京へ単身上京しましたが、入った劇団が解散、二年足らずで故郷福岡に戻ります。一人で生きる事の辛さも味わいましたが諦めず、生涯の伴侶となるテルミを伴って二度目の上京を果たします。1957年には水品演劇研究所(民藝の養成所)に入所し、本格的なスタートをしました。

テルミとは小学校から高校まで同じ学校の同級生です。二人の学年は戦線が広がり、小学校が国民学校となった1941年に小学校へ入学し、敗戦となり民主主義教育が始る新制中学校の一期生です。戦中戦後と空腹と戦いながら、戦後の理想主義的な民主主義教育を受けた、飢えた平和主義者です。

大橋喜一は、1917(大正6)年に東京府南葛飾郡砂村大字八右衛門新田(現、江東区北砂)で熊本出身の父親と千葉生まれの母親から生まれました。数えの七才で関東大震災に遭い、熊本に祖母と疎開。その祖母は砂利運びの日雇いをしながら、その金で夜ごと芝居小屋に大橋をともない通ったそうです。しかし一年経たずに祖母は砂利運び中に脳卒中で亡くなります。再び東京に戻りますが。八才で弟と母親を続けて亡くし、一三才の時には父親を亡くします。その後は養子の話も合ったそうですが、母方の祖父母を助ける為に、高等小学校に上がる頃から仕事を始めます。高等小学校の間は祖父の仕事の手伝いをし、小学校を卒業すると、鋳物工場、徽章工場、金庫製造、臨時郵便手を経て、ベニヤ板工場で働くようになりました。その間、昭和13年一回目の召集、昭和15年に除隊、昭和17年に2度目の応召を受けています。戦後もベニヤ板工場の関係で働きだしましたが、工場は三ヶ月ほどで焼失、仕事がなくります。縁もあって川を渡り川崎の東芝を受けます。学歴がないので、会社には入れませんでしたが、組合にひろわれ、東芝の組合の書記局に入ります。

その組合での活動が大橋の劇作家としてのスタートとなっています。

文責 葛山耿助